Less Than JOURNAL

女には向かない職業

死に至る病

中学生の時、岩波文庫が出した「青少年が読んでおくべきマストアイテム」みたいな50冊(←確か)のセットを誕生日か何かに買ってもらった。「竹取物語」みたいな古典から哲学書まで、これぞ岩波文庫という東西の定番ばかり。しかも、少年少女向けシリーズではなく、モノホンの岩波文庫である。まぁ、あたくしのような頭のよろしくない中学生にとっては確実に“ちょいムリめ”なラインナップではあったが、読み切れないほどたくさんの本がびっしり詰まった化粧箱というのはコドモの身にはたいそう贅沢な宝箱のように思えた。当時はまだ、カバーがシャカシャカ音をたてる半透明のパラフィン紙で。あれをそーっと剥ぐ瞬間、なにかホンモノを手にしているんだという実感にワクワクしたし、その本が、それを手にしている自分を一人前の大人として扱ってくれているような気がした。ので、うれしくて、一生懸命に読んだ。その中の1冊が『死に至る病』だった。
「××すると死んじゃうよー」みたいなガセネタが楽しくてたまらない年頃としては、当然、刺激的なタイトルだった。死に至る病って何なんだろう……と思って読んでみたら、それはビックリおもしろ豆知識の類ではなく哲学の書。しかも「死に至る病」とは「絶望」である、という。
わからなかった。人間が絶望で死ぬなんてゆーことは、想像もつかなかった。
「それってちょっと大袈裟じゃなくねー?」
と思ったことをよく覚えていて、今になってみれば、そんな風に考えていた幸福な自分が過去に存在していたということを、この経験から思い出すことができるので、よくわかんなかったけど本は読んでおくもんだと思うし、キェルケゴールありがとう!と思う。今は、よくわかる。死に至る病とは絶望のことであると、遙か昔の19世紀に言い切ったキェルケゴールはすごい。別に「死にたい」とは思わないけど、ふと、もう、これだけ生きるのが面倒くさいってことは死んでもいいと思っていることなのかなと思ったりする瞬間がないわけではない。中学生ともなれば「人はなぜ生きているのだ?」みたいなことをボンヤリと考えたりしたがる年頃だったわけだし、その答えのひとつは『死に至る病』の中にあったはずなのだが……残念ながらわたしには「絶望」の意味がわからなかった。それは自分が凡々バカボン中学生だったからとゆーこともあるだろうが、ただ、いかなる境遇にあったとしても、たかだか10何年かの人生の経験者ならば誰しも「絶望」なんて想像に絶する概念なのだと思う。たとえホントに、不幸にも絶望の淵に立たされていたとしても、たいていは自分が立っている場所が「何」なのかは理解できないような年頃なのではあるまいか。うまくできてるよね、人体は。絶望の本質を理解できる時には、頭だけでなく肉体も対処できる段階に至っているわけで。たいていはね。
中学生の頃に「わかんねー」と思いながら読んだ内容も、フシギなことに意外とよく覚えていたりして。今になって「あー、そーだったのかぁ」とヒザを打ったりして。だから、たぶん今、この本を読んだらかなり面白いんじゃないかと思う。最近、ふと、大学時代にハマッたフーコーを読んだらそれも面白かったし。なんか、人生2周目に入るってこーゆーことなのか(笑)。でも、最近は本を読むのも面倒くさいからなー。それを受け入れる準備が出来た時には時すでに遅すぎだったりするんだな、なにごとも。でも、とりあえず読んでおけば、こうして微かな記憶だけでもけっこう今の自分の役に立ってくれることがあるわけで。だからやっぱり、若いうちにちょっとムリめな本を読んでおくことも大事だってさんざんオトナに言われたことは正しかったと今になって気づいたりしているわけだが、それもまた、気づいた時には遅いんだなー。ぽりぽり。
ちなみに、その岩波文庫セレクションの中で当時いっちばん興奮したのは『女の一生』。いやー、あまりにエロいんでコーフンした。男女が、互いのナニに名前をつけて夜ごとの営みに励むくだりなどは、クラスの女子じゅうで回し読みしてヒャーヒャー喜んでいた。しかし、よく青少年向けセレクションに『女の一生』が入ったものだなぁ。岩波書店のナイス・ジャッジ。男子がこっそり持ってくる週刊エロトピアは即没収だが、『女の一生』はオッケー。芸術という名のもとでは、エロ話さえ許されるのはなぜなのだ? と、中学生の頃からすでに、高尚なオゲイジュツの影で迫害される軽芸能の不遇に胸を痛めていたわたくしなのだった。なんちってウソウソ大ウソ。

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)