Less Than JOURNAL

女には向かない職業

♪Happy Times We've Been Spending

 昨日、Billboard Live大阪・東京での来日全公演が終了した。今年前半の来日ラッシュに伴うみぞうゆうの経済危機(←当方の)につき、いろいろ考えて今回は金曜日の2ndステージ1公演のみを鑑賞。Wilsonic-Setake氏(仮名)の悶絶ツイートぶりなどを見るにつけ、ああ、やはりあと2……いや、せめて1公演だけでも多く見たいという思いに駆られなかったかというと、駆られたんだが。逆に、1公演1本勝負だからこそ出せた集中力とか発見もあったように思うので(負け惜しみ3割だがね)。まぁ、よしとする。たった一度とはいえ、2階席最前列中央、つまりマイクが見上げた先にオレがいるという絶好のポジションだったし。だから「Good Vibration」では、マイクがこっちに向けてギンギンにラブ・バイブレーションを飛ばしてくれたぜ。本当だよ!だから、お返しにオレも飛ばした(*^_^*)。いやー、なんか絶倫になっちったよ。マジで。いやんばかーん。

 かように楽しくてたまらぬステージであったわけだが。
 同時に、このバンドが辿ってきた歴史に刻まれたさまざまな出来事に改めて思いを巡らせる機会を与えてくれたステージでもあった。





さて。




 ビーチボーイズについてもいろいろと書きたいことはあるのだが。
 今日は、グループの両翼であるマイクとブライアンについてメモったことをちょっと書きとめておきたいのであります。



 ブライアン・ウィルソンがステージで「The Warmth Of The Sun」を歌う時、わたしはいつもマイク・ラブのことを思い浮かべていた。
 ケネディ暗殺事件のあった日に、ふたりがこの曲を書き上げた時のことを考えていた。
 その日、多くのアメリカの若者たちとまったく同じように、明るい希望を奪われ、深く傷ついたふたり。彼らが互いに手をのばしあい、抱き合い、慰めあうように曲を紡ぐ光景が、この曲を聴くたびにありありと浮かぶのだ。そしてこのライブでも「The Warmth Of The Sun」が歌われた。今度は、ブライアン・ウィルソンのことを考えた。目の前にいるマイクと一緒に曲を作っているブライアンの姿が思い浮かんだ。


 ああ、この曲が生まれた時、マイクとブライアンが一緒にいたんだな。


 その事実を思うたび、なんだか涙ぐみそうになる自分がいた。


 マイク・ラブブライアン・ウィルソンは、たくさんの曲を一緒に書いてきた。あるいは、ブライアンが書いたたくさんの曲をマイクが歌ってきた。あるいは共にコーラスをした。とにかく、いろんなことを一緒にやってきた。そして今、マイクとブライアンはそれぞれ別の場所で、かつてふたりで作った曲を歌っている。

 今回、マイク&ブルースのビーチボーイズを初めてライブで見た。素晴らしかった。ブライアンが今のバンドを率いて奏でるビーチボーイズとはまったく異質だが、それでも不思議なほど同じ匂いのする素晴らしさを感じた。そういうステージだった。

 この10年−−つまりブライアンが復活して、ソロとしての活動を始めてからの10年は、ビーチボーイズの長い歴史の中でもいちばん長く過酷な日々だったと想像する。

 マイクとブライアンが、それぞれの道を見つけるための10年。
 そういうことだったのかな。

 マイクとブライアンを中心にした無敵のアメリカン・アイドル・バンドだった彼らが、くっついたり、ほどけたり、新しい仲間を見つけたり、ちぎれたり……。なんという10年だったんだろう、と思う。ザ・ビートルズだって、仲良し4人組がくんずほぐれつを経て別れてゆくまでの全歴史が10年に満たないんだぞ。

 しかし、長い歳月を経たからこそ《別れた》事実が新しい意味を持って新しい輝きを放つこともあるのだ。

 だから、思った。
 もはや、彼らは再び一緒にやることはないだろうなと(アニバーサリー的な機会はあるのかもしれないけれど)。


 彼らは二度と交わることのない、二本の平行線。


 そのことを、ある意味、今までになく清々しい思いで実感させられた。これまでは、そうかもしれないし違うかもしれないし、今は平行線でもいつかは一本線に戻ってほしい……とかウダウダと未練がましく思っていたし、確信も持てなかったのだけれど。そう、二度と交わることはないのだ。そのことをとても優しく、おだやかに、けれど毅然と宣言された気がした。マイク、そしてブルースによって。

 それは悲しいことでもなく。まぁ、だからといって嬉しいことなのかどうかもハッキリしないのだけれど。とにかく、それはとても美しい平行線だ。


 もちろん、どちらもいろんなものが足りない。


 どこまでいっても、マイクとブライアンが一緒にいない限りは足りないものがある。そりゃそうだ。つまり、まぁ、互いに相手の存在が足りないってことだし。あるいは、ブルースやアルの存在ということでもあるし。あるいは、天国のカールやデニスだったりもするかもしれないし。


 でも、実は“足りない”ことこそが重要なのかもしれない。
 それが、今回のいちばん大きな発見だった。


 彼らは、これからもずっと足りないものを抱え続けていくのだろう。


 足りないものを抱え続けることが、今のビーチボーイズの完成形。
 そこにあるべき何かがない、と確かに感じること。それによってマイクのバンドの中にも、ブライアンのバンドの中にも《ザ・ビーチボーイズ》というスピリットが宿る。


 今から十何年か前、ブライアンの抜けたビーチボーイズについて「ブライアンがいないビーチボーイズ、というビーチボーイズの形もある。それはブライアンがいるビーチボーイズ、という形と同じくらい大事」というようなことをエラソーに書いた。あの時は、今みたいに複雑な事情もなかったし、漠然と思ったことだったんだけど。今となっては、あの時に感じたことが発展して今に至っているのかなーという気がしてくる。


 ステージ上に“欠けている場所”を感じることで、観客である我々もそこにビーチボーイズを見る。マイクやブルース、ブライアン、アル……皆が同じステージに立つよりも、もしかしたらリアルにビーチボーイズを感じることができるのかもしれないな。


 「Wouldn't It Be Nice」。


 この曲が男女のラブソングという意味を超えて、今のビーチボーイズのことを歌った曲のような気がしてしまうのは妄想が過ぎるだろうか。

 「僕たちが歳をとっていくことは、素敵じゃないか?」

 幸せな時を重ねて、歳をとって、今がある。



 ところで。妄想ついでに。最後にどーでもいい、しょうもない妄想を。


 今回のビーチボーイズのステージを見ながらブライアンのことを考えていて、『仁義なき戦い 頂上決戦』の終盤に出てくる広能と武田のシーンを思い出していたのはわたしだけでしょうか。て、問いかけつつ、たぶんわたしだけですよな。でも、同じことを考えている人がいるとしたら友達になりたい。


 拘置所の廊下で、ふたりが交わす短い会話。日本映画史上、もっとも美しい男の友情といわれる場面だ。


武「落ち着いたら一杯飲まんかい」
広「そっちとは飲まん」
武「なんでじゃ」
広「死んだもんに済まんけえのぉ」


 ああああー。ご存じない方には説明のしようがないのだが……。こうして会話を書き写しただけで興奮する! 男の友情に焼き尽くされそうです!
 子供の頃には「なんだ、広能も冷たいやっちゃのぉ〜」と思っていた。が、この友情がわかった時、わたしは数センチほど大人の階段を上った。
 二度と交わることのない、美しい平行線。そこにある友情の本当の深さは、ふたり以外の誰にもわからない。


 そっちとはのまん。


 あああああー。


PET SOUNDS

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