Less Than JOURNAL

女には向かない職業

炭坑夫の娘(または、炭坑夫の娘の父)


■■『歌え!ロレッタ愛のために』■■
(原題:Coal Miner's Daughter/1980年・アメリカ)

 ↑どうでもいいけど、この邦題のいきさつは何なんだろうか?

 ロレッタ・リンの名を知ったのは、この映画がきっかけだった。
 ただし、公開当時に映画を観たわけではない。愛読していた映画誌や情報誌で“『キャリー』のシシー・スペイセク、今度は大物カントリー歌手に扮して大熱演!”と大絶賛されていたことが妙に印象的だったのだ。

 『キャリー』は、子供心にも強烈なオカルト映画だった。つか、デ・パルマ監督を知らずとも、あのラスト・シーンがトラウマにならない子供がいるだろうか。いない。
 あまりにも強烈だったので、もう“キャリー”以外のシシー・スペイセクなんて全然想像がつかなかった。ところが、なんと、今度はカントリー界の大スター歌手を演じるという。その記事のことはよく覚えている。キャリーが大物カントリー歌手、という意外性のせいだろうか。もしくは「実在の大物カントリー歌手」といわれても、ロレッタなんとかが誰だかわからなくて、だけどアメリカでは知らぬ者はない大スターだというのが気になったのか。
 そう。あの頃はまだ、もはや日本ではカントリー・ミュージックは驚異的に人気がないということを知らなかったのよ。

 実際に映画を見たのは公開から何年も経ってからで、ロレッタ・リンのことを知った後のことだった。そして5年ほど前、待望の日本版DVDが出た。いや、これが出たのはビックリだった。まぁ、もう一度ちゃんと観てみなさいっていう啓示かなぁ、なんて思って買ってみた。そしたら、ぼんやりした記憶とは別モノの映画かと思うほど感動した。以前に見た時にはわからなかったことがあまりにも多くて、ほぼ全編が完全に上書き更新された。
 それにしても、まだ無知だったとはいえ、せめてロレッタ・リンの存在を知った後で観てよかった。リアルタイムで観ていたら、ストーリーはチンプンカンプンだし、暗くて退屈な映画としか思わなかっただろうなぁ。ナッシュヴィルがどんな場所かも知らないし、無名のロレッタを見いだしたアーネスト・タブが本人役で登場する“グランド・オール・オープリー”再現場面だってネコに小判だったはずだもの。

 『キャリー』では26歳にして17歳の少女を演じたスペイセクは、ここでは13歳から円熟期までの半生を見事に演じている。その熱演によって、アカデミー賞の主演女優賞を獲得した。ちなみに、この作品はアカデミー7部門にノミネートされている。

 いくら年齢不詳キャラといっても、ローティーンの少女を演じるのはルックス的にちょっとムリがあるんじゃないか……という気もしなくはない。が、映画では、少女時代から大人になってまでのロレッタ・リンが“つながっている”ことが何より大事なテーマなので、ちょっとオトナコドモみたいな10代も納得させられる。つか、そういう風に納得して観ると、映画のテーマがよりはっきり伝わってきて面白い。10代からの生い立ちをひとりの人間が演じることで、その独自性が偶然ではなく最初からあったことを丁寧に解き明かしている。

 今でいうヤンママだ。幼くして結婚、デビューした時にはすでに4人の子持ちだったというロレッタ。スペイセクは、そんなロレッタの中にある“少女”の部分をストーリーの縦軸にどっしり据えている。
 早熟というよりも、大人になるチャンスを逃したまま大人になり、その不安定さを抱えたまま全米を熱狂させるスーパースターになってゆく。
 それゆえの、幾重のアンバランスさ、精神的な脆さ。それらは、私生活の中でのさまざまな混乱と悲劇を招く種となる。が、逆に音楽的には、唯一無二の個性として、大きな魅力になってゆく。
 たとえば、彼女のトレードマークともいえるフリフリのお姫さま系(または畠山みどり系ともいう)ドレス。あの装いに対するこだわりも、アンバランスさの象徴と見ることができる。彼女の中にある永遠の無垢と、ある種のトラウマにも近い何かの象徴。オトナガールとか、そんなハンパなものじゃない。もっと深くて、謎めいたもの。

 圧巻だったのは、大スターになってからのコンサート・シーン。オスカーも当然と思うほど、ロレッタ・リンの雰囲気を見事に掴んでいる。実際の顔だちはむしろジョニ・ミッチェル似なのに、ホントにホントにロレッタ・リンに見えてくるもの。たぶんメイクや衣装というより、キャラ作りや演技力のなせるワザ。吹き替えなしで本人が挑んだ歌唱も、ある種、迫真の演技。すごい。『レイ』のジェイミー・フォックスも、『ウォーク・ザ・ライン』のリース・ウィザースプーンもかなわない憑依ぶり。
 ちなみに音楽面のスーパーバイザーを務めたのは、カントリー界の超大物オーウェン・ブラッドリー。サントラの録音は、数々の名盤を生んだブラッドリーのハウススタジオ“Bradley's Barn”で。当然、参加ミュージシャンも一流どころが揃っていて、コーラスはザ・ジョーダネアーズだ。スペイセクの本来の歌唱力がどんなものだったのかは知らないけれど、単なるモノマネに終わらせずにロレッタらしく“熱演”した歌唱はブラッドリーの手腕によるものではと察する。

 浅学カントリー愛好家として興味深かったのは、ロレッタとパッツィ・クラインとの交流が描かれる中盤以降の物語だ。ロレッタの成功は、時のスーパースターだったパッツィ・クラインの存在なくしては語れない……ということくらいしか知識はなかった。映画がすべて実話に忠実ではないとしても、公私にわたるふたりの関係が、どんな感じで互いの人生に影響を及ぼしていったかは、映画を観て初めて理解(と想像)することができた。
 並み居る実力派の先輩たちを押しのけ、オープリーでめきめき頭角を現していくロレッタ。交通事故で療養中のパッツィのかわりに、有名なアーネスト・タブのレコード・ショップからのラジオ中継(←この場面の再現も見事!)でロレッタが彼女の曲を歌う。すると、パッツィの夫が店にやってきて、ラジオを聴いた妻がロレッタに会いたいと言っている……と彼女を病院へと連れてゆく。てっきり女王の怒りをかったかと思いきや、ほめられる(笑)。復帰したパッツィは、自身の全米ツアーにロレッタを参加させることに。そしてロレッタはぐんぐんスター街道を駆け上ってゆく。

 先日、この映画を久しぶりに見直していてふと思った。

 ロレッタは、日本でいえば島倉千代子に近いのかもしれない。
 そして、パッツィ・クラインは美空ひばりだ。

 女王・ひばりと、彼女を姉のように慕う女学生歌手・千代子。
 孤高のスーパースター・ひばりは、かつての自分自身の姿を天才少女・千代子の中に見たのではないだろうか。妹のように彼女を可愛がり、心を許し、歌の世界で生き抜くための心得を授け、けれどあくまで同じ歌手というライバルとしてのクールな距離感を保ち続けた。
 映画の中のパッツィとロレッタの関係も、まさにそんな感じに描かれているのだ。

 まぁ、それは、あくまでも映画の中の物語を見て思ったことなんだけど。

 お千代さんもまた不世出の天才歌手であり、恋多き女といわれ、けれど何歳になっても夢見る少女のような可愛らしさで。そのアンバランスさが、無邪気さの果てにある狂気というか、孤高で刹那なソウルを感じさせるところがある。そのあたりが、なんだかロレッタと重なってしまうのだ。今でもお姫さまドレスがトレードマークのロレッタもすごいけど、お千代さんだって還暦過ぎてガチでセーラー服ですから。負けてませんもの。

 そうだ。忘れてはいけない、もうひとりの《主役》を。

 ロレッタの父親、テッド・ウェッブ。
 ケンタッキー州の貧しい炭坑町、ブッチャー・ホーラーのごくごく平凡な労働者。

 演じているのは、ザ・バンドレヴォン・ヘルムだ。

 そもそも、映画の原題は『Coal Miner's Daughter(炭坑夫の娘)』。1970年に全米カントリーチャートで1位となった、まさしく父に捧げるロレッタの代表曲だ。だから、タイトルからしてもレヴォンはもうひとりの《主役》ってことなのだが。
 もしこんなタイトルでなかったとしても、この映画はレヴォン抜きでは成立しない。彼がいなかったら、スペイセクが演じる“炭坑夫の娘”も違ったものになっていたはず。

 レヴォン演じるテッドは、歌うわけでも演奏するわけでもない。
 娘に音楽の手ほどきをしたり、歌手を志すきっかけを作ってやったというエピソードもない。自分たちの暮らすスモールタウンが世界のすべてであり、娘が華やかなショービズ界の頂点に立つことなど想像すらできない。無口で、無骨で、いつも穏やかに家族を見守り続ける。そんな優しい父親を演じるレヴォンは、ミュージシャンではなく“俳優”としての才能を存分に発揮している。

 俳優としての出演作も多いレヴォンだし、音楽と関係ない役柄を演じることも別にフシギではないし。彼の出演映画で、いちいち“ミュージシャン”の面影を探そうとは思わない。けれどこの映画に関してだけは、レヴォンが俳優であると同時に“ミュージシャン”であることがとても重要だったと思う。
 なぜならテッド・ウェッブは、平凡な炭坑夫であると同時に“ロレッタ・リンの父親”だから。
 天才ミュージシャンの父親を演じるのには、俳優であると同時に天才ミュージシャンであるレヴォン以上の適役はいなかったはず。どんな名優でもたぶん、レヴォン・ヘルムのように“ミュージシャンの父親”を演じることはできなかっただろう。
 スペイセクをはじめとする役者陣が歌手やミュージシャンとして登場し、アーネスト・タブら実在のミュージシャンも本人役で出演している。が、実は、いちばん深い部分でロレッタの“音楽”の本質を示しているのは、音楽からぐっと離れた役柄のレヴォンなのだと思う。そして、この映画が凡百の伝記映画と違う仕上がりになっている理由もそんなところにあるのかと。
 ロレッタ・リンは、こんな父の背中を見て育ったんだな……という想像だけでも、ワクワクする。




 さて。
 なぜ今ごろ急にこの映画を見たくなったかというと。
 最近出た、このアルバムがきっかけなのでした。

Coal Miner's Daughter: a Tribute to Loretta Lynn

Coal Miner's Daughter: a Tribute to Loretta Lynn

 まずジャケットが最高にクール。
 線路をお姫さまドレスで歩く。これは、カントリー・ミュージックだからこそ成立する構図なわけで。そうでなかったら、えーと、えーと…………みたいな世界ですわな。日本でいえば、嵐の波止場にドレスにティアラで佇む八代亜紀みたいな構図だ。「国民的歌手」と呼ばれるだけあって、やっぱり演歌っぽいスタンスではあるのかな。私も最初は、演歌っぽいイメージが強すぎてロレッタを敬遠していたところがあった。そういうトゥー・マッチな美意識も含めての圧倒的な存在感こそがロレッタ・リンの魅力なのだ、というところに気づくまではちょっと時間がかかってしまった。
 このトリビュート盤は、私のようなロック育ちのカントリー・ファン(?)にとっては最高にドンピシャリなポジショニング。古きよきアメリカの国民的スーパースターへの憧憬もあり、女性シンガー・ソングライターの先駆者としてのロレッタに対する積極的な再評価の姿勢も感じられる。これを聞いて、あらためてロレッタ・リンをじっくりと聞き直してみると新たな発見がいろいろとある。で、もういちど映画も観たくなったし。

 フェイス・ヒル、キャリー・アンダー・ウッド、ルシンダ・ウィリアムズといったカントリー系美女軍団に加えて、ホワイト・ストライプスやスティーヴ・アール、キッド・ロックといった野郎どもも偉大なるロレッタ姐さんへ最大級のリスペクトを捧げている。いちばんビックリしたのは、なんと、パラモアが入っている! エモもすなるカントリー、てか?(笑) どんなパンキッシュなカヴァーかと思いきや、これが非常にまっすぐなアコースティック・アレンジ。歌も、さりげないカントリー・フレイバーがごくごく自然な感じで出ていてチャーミング。考えてみたら彼らはナッシュヴィル出身だし、子供の頃からアタリマエの空気みたいに存在していた音楽なのだ。うらやましいな。

 アルバムの最後では、シェリル・クロウミランダ・ランバートを従えてロレッタ姐さんご本人が登場。圧巻の「COAL MINER'S DAUGHTER」を歌い上げている。

 しかし、いい時代になったものだ。10数年前までは、こういうカントリー勢のトリビュート盤にロック系アーティストが参加するのはまだまだ敷居の高い感じがあった。スティーヴ・アールとかルシンダ姐さんあたりでも、ナッシュヴィルど真ん中の人たちとの交流にはちょっとした高さの敷居があったような印象がある。そんなわけで当時は、単に便宜的なポジションという意味でも“オルタナ・カントリー”というジャンルが便利だった……というのもある。今ではもう、スティーヴ・アールはフツウのカントリーおぢさんの役割でもオッケーでハッピーみたいだし(笑)。15〜6年前の、ギザギザハートのスティーヴ・アール的なポジションには、なんと、現在ホワイト・ストライプスがいる。もう、最近このテのトリビュート系っていうと必ずジャック・ホワイトが出てくる気がするなぁ。しかも、ものすごい張り切って立候補してる感じがして、当然、出来もおそろしく素晴らしいのばかりだったりするし。シークレット・シスターズのデビュー・シングルもナニゲにジャック・ホワイトのレーベルThird Manで、しかもジョニー・キャッシュのカヴァーというオレ流トリビュートの匂いプンプンだったし。そういえば、今度はワンダ・ジャクソン姐さんとツアーするっていうし。もう、なんか、このままどうなっちゃうんだ、とか心配するふりして、ホントにすっごく嬉しいんですよ。


 あ。ちなみに。映画でロレッタの夫を演じるのは若き日のトミー・リー・ジョーンズ。いやぁ、若い! 若い頃はちょっと中途半端な色男って感じだけど、そんなキャラも生かしてイイ味を出しています。