Less Than JOURNAL

女には向かない職業

ミステリはリズムに乗せて♪

読了。
『トップ・プロデューサー ウォール街の殺人』
(ノーブ・ヴォネガット著/北沢あかね訳)

 トップ・プロデューサーといっても、Tボーン・バーネットでもなければテツヤコムーロでもない。ウォール街でもっとも能力の高い株式仲買人のことを、そう呼ぶのだそうです。主人公・グローヴは、そのトップ・プロデューサーのひとり。彼の親友である大大大富豪の投資家チャーリーが、妻のために開いた誕生パーティーの席で殺される。しかも、パーティのために貸し切ったボストン水族館の巨大水槽の中で、満場のセレブ客の目の前でサメに食いちぎられるという残虐な方法で……。ところで話変わってグローヴは、18ケ月前に妻子を交通事故で亡くした。失意のドン底にあったグローヴを支えてくれたのはチャーリーと、亡き妻の親友でもあった超超超美人妻のサムだった。そんなわけで、同じように伴侶を亡くした美人のサムを支えなければと使命に萌える燃えるグローヴだったが、未亡人サムに残された大大大富豪チャーリーの遺産はたった600ドル! 「これじゃ、サムはランチも食えない」とサムに同情して涙するグローヴに、「サム、どんだけ大食いだよ……あ、違うのか!おいおい、600ドルあったら1ケ月ランチ大盛りコーヒーつきが食えるじゃねぇか!」と軽くムッとする読者・ノージ……。三者三様の思いが交錯する中(交錯しません)謎はますます深まり、やがてグローヴの身にも魔の手が……。
 大富豪だったはずのチャーリーの正体は一体!? 美人のサムとグローブはどうにかなるのか!?

 と、まぁ、そんなダイナミックなお話です。
 ねー、おもしろそうでしょう。お膳立てに関しては、満点。TSUTAYAで大人気のアメリカン・ドラマシリーズか、ニコラス・ケイジナオミ・ワッツ主演のハリウッド超大作かって感じのデジャヴ感たっぷりサスペンス・スリラーです。が、ストーリーとしては、まぁ、まぁまぁ。思ってたほどジェット・コースター系ではなかったです。設定が大風呂敷すぎるだけに今ひとつ濃密さが足りなかった。犯人すぐわかっちゃいすぎるし。ミステリとしてはミスリードが中途半端すぎるし。やたら思わせぶりなディテールも、結局は伏線でも何でもなかったりするし。ただ、実際に金融業界で長年活躍した作者だけあって、金融界のことがわかりやすく自虐ユーモアまじりに説明されているのが面白かったり。10億100億1000億なんたら兆ドル……と、ものすごい金額が右から左へドドスコドドスコ動き回ってるのが、素人にはSFめいて快感だったり。そんなわけで話の筋はさておき、豆知識とディテール描写を楽しんだ感じ。

 あと、こういう話には《ムダにイイ女》てのがつきものなわけです。スーパーモデル並の容姿、政府の秘密機関に狙われるほどの頭脳、しかも性格にじゅうまる。みたいな。それはもう、リアリティの有無に関係なく、執筆中の作家のモチベーションをあげるための《喜び組》要員みたいなもので。まぁ、読むほうも「ああ、この人が喜び組だな」とわかるところが屈折した楽しみでもあるわけですが。そういう美女キャラは、まぁ、ひとりか、せいぜい犯人とヒロインとで2人……でいい。本書の場合、未亡人サムをはじめ、グローブのアシスタント、亡き妻……出てくる女性がことごとく美女、しかもナオミ・ワッツに脳内キャスティングされる感じの。ま、そういう女だらけの水泳大会っぽいお祭り感は好き嫌いがわかれるところでしょうな。
 そう思うと、ジョン・ル・カレの小説に出てくる《ムダにイイ女》って絶妙だなぁ。と思う。スマイリー妻を頂点として(笑)。「相棒」に出てくる高樹沙耶さんが演じる《小料理屋の女将で元妻》的な距離感を常にパーフェクトにキープしている。て、ものすごくわかりづらすぎますね。

 ちなみに作者のノーブ・ヴォネガットは、ヴォネガットってくらいで、そう、あのヴォネガットの一族である。カート・ヴォネガットは叔父にあたる。冒頭の謝辞ではカートの息子、つまりノーブの従兄弟のマーク・ヴォネガットが「著述業は“家業”である」と評したことに触れている。自らが青春期に心を病んだ過程を描いた自伝的小説「エデン特急」も発表しているマークにとっては、ちょっとシニカルな意味あいも含まれるのだろう。ともあれ、医者であるマークも、金融マンであるノーブも作家としての著作を発表しているということは、やっぱり“書かずにはいられない”遺伝子を持つ家系なのか。でも、よく二世政治家が言われる「政治家が家業である」と言う理屈以上に、小説家一族というのは想像つかないなー。一族の中に小説家、ひとりいても親族はいろいろと大変だろうに。でも、このノーブの金融ミステリくらいの副業っぽい作品なら、まぁ、題材があった上でテクニックを身につけて作り上げる……という感じなので、いいのか。一族にカート・ヴォネガットが何人もいるとか、トルストイが何人もいるとか……そんなのだったら、ちょっとおそろしすぎるけど。

 そもそも“ゴーストライター探偵”ホーギー・シリーズ、デヴィッド・ハンドラーの名訳で知られる北沢あかね氏の翻訳だったので読んでみようと思ったので、まぁ、ストーリーにはそんなに期待していなかったぶん楽しめた。というか、久しぶりに北沢氏のテンポいい文体を堪能できたのでよかったです。氏の翻訳は、文章の“見てくれ”よりも全体のリズム感を大事にしている感じで大好き。そもそもデヴィッド・ハンドラーの小説の場合は、彼がドラマ脚本家でもあるだけに会話のテンポが抜群というのがあるのだけれども。北沢あかね氏が翻訳を手がけた他の作品でも、たいがい会話のテンポ感が絶妙で抜群。私は氏の訳す会話のファン、と言ってもよいくらい。
 翻訳という仕事の大変さは想像もつかない英痴(イングリッシュ音痴)なので深いことは書けませんが(笑)、その作者の書く文章が持っているグルーヴ感みたいなことを伝えられるかどうかがいちばん難しいところではないかと思う。しかも、自分の文章を書くのではないので、まず書かれている内容を正確に伝えなければならないし、丁寧にわかりやすく説明することとテンポ感を両立させるっていうのはすごい技術だ。文章を正確に日本語化してゆく作業がメロディだとしたら、その文章がテンポよく頭に入るようなグルーヴィーなスピード感はリズム。大変なお仕事であります。訳者によって、その物語の持つ印象もガラリと変わるしね。翻訳で読んだものを原書で読み直すと、全然雰囲気が違っていて驚く場合もあるもの。そんなわけで、デヴィッド・ハンドラーのコネチカット探偵、ミッチとデズシリーズの新作も北沢あかね氏の翻訳で読めることを願いながら刊行を待ちわびる今日この頃でございます。

ダーク・サンライズ (講談社文庫)

ダーク・サンライズ (講談社文庫)

 文章でもそうだけど、会話のテンポというのは、時には内容そのものよりも大事だ。テンポの強弱の中にも、言葉以上の思いがこめられていることがあるわけで。話し言葉とは、旋律とリズムだ。だから、ミュージシャンでトークのおもしろい人が多いっていうのはよくわかる。コトダマは、リズムにのってこそ人々の心まで届くのだ。
 たとえば、インタビュー記事でもそう。本人が話したことを一字一句きっちり正確に文章化すると、なぜかインタビューの臨場感が出ないことがある。話し言葉というのはどうしても文法的にネジれたりするので、ちょこちょこっと修正しないといけないし。そうすると、ちょっとした修正で喋り全体のテンポが崩れて、本人の言いたい内容が伝わりづらくなったりもする。逆に、本人の言いたかったことを中心に、余計な部分を思い切ってバッサリ削除して文章を整備することで、しゃべり言葉を完全再現するよりも真意が伝わるリアルな文章になったりもする。やりすぎると反則になる。だけど、本来の目的である《伝える》ための加工は必要。そのサジ加減が難しいわけだが。つまり《話し言葉の可視化》という作業だ。