Less Than JOURNAL

女には向かない職業

メガネと音楽とハードボイルド


 「ママが言うには、あなたは歩き始めるより前に歌っていたって」という歌姫と同じで、字が読めるようになった瞬間から私はずーっと読書家だった。
 読むのが好きじゃない時なんか、いちどもなかった。なのに、それなのに、ここ数年は本を読む時間がめっきり少なくなっていた。というか、一冊を読み終える時間がどんどん長くなっていた。気がつけば、1ページの文字数が果てしなく膨大だと感じている自分がいた。以来、2、3ページ読むと疲れちゃって、ちょっと読んでは放置し…みたいな状態が続いていた。ちびちびと1ケ月もかけてハードカヴァーのミステリ一冊を読み終えた時には、読了の爽快感よりむなしさに包まれたものだった。ちびちび読んでいるから、3ページ読んでは10ページ前に起こったことを忘れてしまうのです。ああ、これが老いるということか。歳月は、こうして「読む」という気力を奪ってゆくのか。
 と、思いっきり無気力になっていた頃、ある人に「もしかして、老眼じゃねーの?」と言われた。で、眼科に行ってみたら、老眼のちょっと手前まで来てますよーとのこと。あと、もともと乱視気味だったのがさらに進んでいると。
 そりゃ、小さい字を見るたびクラクラするはずだ。
 それで、遠視&乱視のメガネを作ってみたらビックリ。よく見えること見えること。字がおっきく見えること見えること。旧ポケミスのちっこい文字もスラスラ読める。
 いやぁ、よかったよかった。
 頭が悪くなったんだと思ったら、目が悪くなっていただけだったYO!


(まぁ、頭もね……)


 しかし、ずっと視力だけは1.0以上だったからメガネになかなか慣れなくて、最初は長時間の読み書き時だけ使用していた。が、最近になってさらに視力が落ちたらしくて、運転中とかライブとか、ふだんもメガネなしではいられなくなったので、ようやく日常的なメガネ習慣が身についてきた。メガネかけて何かしながら遠くを見てキモチ悪くなったり、そういうこともなくなった。

 そんなわけで、最近また読書が楽しくなってきて。ものすごい勢いで、じゃんじゃん読んでいますよ。今は、年末ミステリの各ベスト10で未読の翻訳モノがたくさんあったので、そのへんを手あたり次第にやっつけてますが。うーん、なんか、自分の好みとしては今年は今ひとつガツンと来るのがないような……。まだわかんないけど。

 で、最近、思わぬ収穫だったのがケン・ブルーエンの『ロンドン・ブールヴァード』。一昨年11月に出た時に買ったのに未読のまま本棚にしまってあった。コリン・ファレルキーラ・ナイトレイ主演で映画化されたのがちょうど先週末から日本でも公開されたので、そういえば……と思い出したのだった。

 ケン・ブルーエンは、以前はハヤカワ・ミステリから“ケン・ブルーウン”表記で『酔いどれに悪人なし』など何冊か翻訳が出ている。いかにもツウ好みのノワール・リヴァイヴァル系という評判で気になっていたけど、私は本書が初読。
 物語の設定は、ビリー・ワイルダー監督の映画『サンセット大通り』(1950年)へのオマージュ。舞台は現代のロンドンで、ムショ帰りの男が引退した伝説の舞台女優の大邸宅に雑役係として雇われて……という、まぁ、そんな王道ノワール。ストーリーそのものも悪くないが、何よりも面白いのは設定やディテールの面白さ。特に、ミステリに関する引用と、登場するBGMの絶妙な“選曲”が楽しくて、筋書きのちょっと強引なところもまったく気にならずに読みふけってしまった。

 ブルーエンは音楽おたくに違いない、しかもイギリス人ならではの。そんな印象。
 ラルフ・マクテルの「ストリーツ・オブ・ロンドン」が出てきたかと思えば、トリーシャ・イヤーウッド&ガース・ブルックスの「イン・アナザーズ・アイズ」が出てくる。主人公のお気に入りは、レナード・コーエンの「フェイマス・ブルー・レインコート」。アイリス・ディメントの歌詞の一節をチンピラ相手に披露して怪訝がられ、己の運命をクリス・デ・バーの「嵐を待ちながら」に重ねてみる。他にもグラム・パーソンズ、カウボーイ・ジャンキーズ、トレーシ−・チャップマン、メアリー・ブラック、ポリー・ハーヴェイ、スプリングスティーン、フューリーズ、ダイアー・ストレイツビリー・ホリデイ……。物語の中に登場するラジオから、CDプレイヤーから、そして時には脳内再生される回想のBGMとして、次から次へとあらゆるジャンルの音楽が流れ出てくる。詳述は避けるが、刑務所で強姦されてから同性愛に転じた服役仲間が夜な夜な歌うABBAの「悲しきフェルナンド」のエピソードも泣けたなぁ。

 ミステリに登場する音楽・映画・文学にはしばしば作家の嗜好が反映される。私なぞは、ニール・ヤングボブ・ディランの歌詞が引用されてたりすると、それだけで何か気持ちが通じ合う仲間に出会った気分で作家のファンになってしまったりするし。好きなジャンルは「村上春樹の小説に出てくる音楽」という人がいるほど、村上春樹は音楽センスのよさがひとつの持ち味だ。でも、やたらと幅広く音楽や文学を引用したがる作家はたいてい、うんちく自慢にとどまってしまったり。単なる小道具として、それっぽいモノを調べて使ってるだけかと思える引用もある。でも、本書での引用はどれもユーモアがあって、物語に対する必然がある。作者がネタ元の音楽や文学を深く理解してる、愛してるって証拠なのだと思う。

 ミステリ、小説からの引用はさらに盛りだくさん。主人公はやたらめったら小説のセリフを真顔で引用するし、優れたミステリについてムダにおおいに語ってみせるし、自分を小説の登場人物に見立てて難局を乗り越えもする。デニス・レヘイン『スコッチに涙を託して』、チャールズ・ウィルフォード『あぶない部長刑事』、フレッド・ウィラード『ダウン・オン・ポンス』、トマス・ボイル『死者だけがブルックリンを知る』、ハリー・クルーズ『コミック・サザン・クルーズ』、ジョン・デル・ヴェッキオ『第十三峡谷』、ブルース・チャトウィン『ソングライン』……。主人公が恋人に連れられて行く“朗読パブ”では、ホンモノ(?)のジェイムズ・エルロイがステージに上がってエンターテイナーぶりを発揮する。そもそもエルロイやローレンス・ブロックエルモア・レナードあたりへのオマージュはじゅうぶんすぎるほど感じる物語なのだが、そのリスペクトぶりを引用というカタチでもたっぷり表明している。
 この、ちょっとやりすぎなほどの引用を楽しめるか、おなかいっぱいと感じるかは個人差があるとは思う。が。私は大満足。ローレンス・ブロックの“マット・スカダー”シリーズの名脇役、ミック・バルーに自分をたとえる主人公……なんて、もう、完全にヲタ領域でしょ(笑)。ブロックの『墓場への切符』からは長々と文章が引用されてもいるが、そこは物語にもっとも重要な役割を果たしている箇所だ。このくだりでニヤニヤするに違いないファンのために、ちゃんと『墓場への切符』は田口俊樹氏による翻訳バージョンを引用している訳者の鈴木恵氏もグッジョブ。ヲタ心をわかっていらっしゃる!

 昔から言われていることだが、翻訳ものに出てくる音楽関連の固有名詞や曲名、歌詞、用語については、音楽ファンとしては「むむ?」と思うことが多い。年配の翻訳家も多いし、確かにマニアックなミュージシャン名などはご存じなくて当然だし。インターネットがない時代は、ロック・ミュージシャンの名前ひとつ調べるのはたいへんな苦労があったと思うけど。それなりの必然性があって引用されているのに、話の流れを台無しにする誤訳があったりするとガッカリしてしまうし。原題でも邦題でもない珍タイトルに訳されていたりすると、読みながら頭の中で曲を思い浮かべる楽しみを奪われた気分になってしまう。本書がとても面白かった理由のひとつは、音楽や小説に関する翻訳の丁寧さにある。すでに邦題のついている作品についてはそれに準拠し、英語による原題がストーリーに関係している場合は、そのことがわかりやすいような併記をしている。個人的な印象だけど、それによってストーリーのリズム感がすんなりと入ってきたというか。引用ネタの多さにもストレスを感じず、作品の魅力をストレートに味わえたように感じる。こういう、同じ時代の空気を感じさせるカルチャーが盛り込まれた作品が日本でもどんどん翻訳されることは、文学だけでなく音楽シーンにも刺激を与えてくれるのでは。

ロンドン・ブールヴァード (新潮文庫)

ロンドン・ブールヴァード (新潮文庫)



 そういえば。余談というか、ちょっとマメ知識。
 早川書房から出版されていたボリス・ヴィアン全集の1冊、彼のジャズ批評などを集めた『ぼくはくたばりたくない』。われら昭和おしゃれ東京サブカル少女には必携のスノッブ教科書だったわけですが(笑)。巻末にあるジャズについての脚注の一部を書いているのが、当時、ディスクユニオンのバッグで通勤していたという(泣)新入社員のH原K太さんだったことはあまり知られていないですよね。つか、ぜんぜん知られていないですよね。私も、ずいぶん後になって知りました。いやぁ、人に歴史あり。だって、ボリス・ヴィアン全集って私のお嫁入り道具だったんですもの。びっくりしたわー。ナイス新入社員!