Less Than JOURNAL

女には向かない職業

ターナーの月

 10月8日から始まったターナー展@東京都美術館、今日、ようやく行ってきました。


 うれしいことに、今日はこんないいお天気。


 ただ、上野公園日和は美術館も混むんだわ……。なんて、贅沢を言ってはいけませんな。本当に、こんなお天気の日の上野公園の気持ちよさといったら!


 ターナーというと“汽罐車”を想像される音楽ファンも多いかもしれないが。私がターナーに興味を持ったのは90年代、大貫妙子さんへのインタビューがきっかけだった。たしかアルバム『DRAWING』の時。ロンドンで訪れたテート・ブリテンで見たターナーの絵にあった、夜空に浮かぶ月のイメージがアルバム制作のきっかけになったという話を伺った。


 それからしばらく経った頃、初めてロンドンに行く機会を得た。あの大貫さんがそんなに魅せられたターナー、いちど見に行ってみよう。と、テート・ブリテンに行った。現在も膨大なターナー作品を所蔵するテート美術館のターナー専用展示棟である“クロア・ギャラリー”が出来たのは1987年ということだから、今になって思えばギャラリーが出来て10年も経っていない頃だったのか。

 もう20年近く前の話だ。その時の印象は、とにかく点数が多くて疲れた(笑)。鉛筆スケッチやメモまで、とにかく何から何まであるし。正直、当時はなんだかわからないけど、ター坊さまがいいって言うものは見ておけー……くらいのミーハーな気分だったし。晩年に向かうにつれ、ただ画面がぼぉぉーっとぼやけてるような淡い色彩を次から次へと見てると、もう、なんだか何を見てるかよくわかんなくなってくるし、とりあえず全部見終えた時には頭の中がターナーの色彩みたいな感じでぽぉーっとしてしまった。

 が、なんだかフシギなことに。
 次にロンドンに行った時にもターナーがもういちど見たくてテートに行った。そして、考えてみると、たぶんロンドンに行くたび必ずテートには行く。ちょっと観光コースから離れた場所にぽつんとある雰囲気も好きだ。大好きなミレーの「オフィーリア」と、ジョン・シンガー・サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」を見て、それからクロア・ギャラリーへ。時間があればじっくりと眺めて、時間がなければざーっと絨毯爆撃状態で回って、結局、最後は頭の中がぽーっとしたまま、カフェでお茶を飲んで、ぷらぷら散歩しながらホテルまで帰る。一昨年は初めてテート・モダンからテムズを走る定期船でテート・ブリテンに行って、それも楽しかった。

 美術のことはまったくよくわからないけれど。ターナーの絵は、脳みそをリラックスさせてくれる効果がある。癒やし、というのとは違うけど。ちゃんと見えるべきものが見えるようになり、見なくてもいいものは見えなくなるような……そういう“目”を開かせてくれる効果がある。若い頃にはただ絵の具をぶちまけたぼんやりとした色彩に思えていた晩年の絵が、ここ何年かでものすごく好きになった。彼の目には、こんなふうに風景が見えていたんだなと実感できるようになった。実際のディテールとは異なっていても、彼の絵は、その光景が人の記憶にどんな風に残るのかを色彩で表現している。なんだろう、年齢と共にどんどん好きになってくる。見えなかったものが見えてくる、というのは加齢と関係があるのか(笑)。

 今回の展覧会はテート・コレクションを中心とする、油彩30点をはじめ水彩画やスケッチブックなど約110点の展示。かなり見応えのある点数で、ひととおり見たら2時間かかった。「頭がぽーっとするまで、いっぱい見る」という、私のお気に入りのパンチドランカー的ターナー鑑賞法もオッケーのスケール感がうれしかった。もちろんテートに比べたら少ない点数だが、時代を追った10パートにわかれた展示はひとつひとつが端的でわかりやすく、ターナー史の全体像をしっかりと見せてくれるものだった。しかも100点以上あるので見応えもあるし。つか、なんか、ちゃんと全体を掌握して見る気なら100点が限界だな。オレみたいな素人には、と思いました。てへ。

 ターナーの絵は、最近だと007最新作『スカイフォール』にも登場する。ボンドが、新しいQ(←若造の)と待ち合わせをするのが、ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるターナーの『戦艦テメレール号』の前だ。けっこう大事な、意味のあるシーン。
 と、もちろん他にもいろいろな場所で見る機会はあるが。他の画家の作品と一緒に展示されているのを見るのは、ターナーだけをずっと見ている時と何か違う。大作からスケッチまで、ずーっと見ているといつしか画家が語りかけてくるような気がしてくる。その瞬間が、好きだ。と、今日もあらためて思った。

 とにかく、ターナーはどうしても、たくさん見ないとダメなの。なぜだかよくわからないけど。頭の中がターナーの絵になるまで、ぽーっとするまで見たい。というか、その日の記憶が、自分の中でターナーの水彩画みたいな映像になってほしい。わかりづらくてすみません。ターナーが自分の見た風景を絵に描いたように、自分の記憶そのものをターナーの絵画みたいにしたい……という。そういうことなのかもしれない。

 今でも思い出すのは、3・11の震災後の空。ちょうど震災の数日前に、こんなにきれいな空は久しぶりに見たなぁと思うほどの青空を見た。でも、震災後はずっとグズグズした曇り空ばかりだったような記憶がある。実際には違ったのかもしれない。でも、私の記憶の中では、その年の春から秋にかけては、重そうな雲の向こう側にぼんやりと太陽の光を感じるような景色をたくさん見ていたような日々が印象に残っている。その当時のことは、なんだか記憶があいまいなんだけど、空を見上げて何度も「なんだか、ターナーの絵みたいだな」と思ったことをよく覚えている。そして、そう思うことでなぜだがいつも気持ちがちょっと軽くなった。
 たぶん、その記憶にある光景は、事実とはちょっと違っていると思う。でも、自分の中ではまぎれもなく事実。記憶の中の光景というのは結局、すべてを忘れても光と色彩だけは残る……ということなのかな。

 ターナーの時代は宗教画こそが崇高で、絵画としても階級が高いと言われていて。風景画はどっちかというと軽く見られていた。天才少年として早くから頭角を現していたターナーは、そんな風景画のステイタスを上げることにも生涯尽力した人だった。
 彼が描く自然の風景からあふれ出る圧倒的な威厳、美しさ、崇高さ……。そういうものに心を動かされる瞬間というのは、つまり人間がどんなに威張ったり着飾ったところで屁みたいなものだということを無意識のうちに思い知らされているということだ。ただ美しい、あるいは恐ろしい景観が広がる絵を見ながら、人間の無力さを実感する。そして無力であるからこそ人間は愛しいのだと思う。ターナーの絵が愛されるのは、そこだなきっと。


 ちなみに。この展覧会のための図録は読み物も充実していて、別冊でターナーの足跡を追う地図もついていたりと楽しくてお買い得。おすすめです。



 あと、ぜんぜん関係ないんですけど。帰りにミュージアム・ショップを通りかかったら、こんなものがいました。

 ムンク・キティです。
 いやぁ、いいかげん仕事選べよ仔猫チャン(笑)。
 と、思いつつ、どうしても素通りできない自分がいました。ちなみに、これは白目バージョンですが黒目バージョンもあります(なんだそれ)。白目バージョンには「好きな目を貼ってね」つーて、黒目とかハート目とか4種類のシールがついてます。