Less Than JOURNAL

女には向かない職業

ファジル・サイ&新日本フィルハーモニー交響楽団

「僕のサイがね」

「君とこサイ飼ってるんか」

……ではないほうのサイさんを、聴いてきました。

 

11月9日@すみだトリフォニー・ホール

ファジル・サイ新日本フィルハーモニー交響楽団

トリフォニーホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ2018

すみだ×新日本フィルハーモニー交響楽団

フランチャイズ30周年

 

 えーと、どれがタイトルがよくわからないので、とりあえずプログラムの表紙をまる写ししてみましたが(↑)。トリフォニー主催企画公演シリーズで、ふだんなかなか見られない贅沢スペシャル企画を文化庁にも応援されたりしながら実現するありがたいシリーズ。とはいえ、オーケストラとの共演はそこそこなお値段なので、今月はコンサートけっこう多いし、行きたいなー、どうしようかなーと直前までちょっと迷っていたのですが、やっぱり行ってよかった!!席残っててよかった(´;ω;`)。こういう迷いでためらったらダメですね。

 

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 今回、様々なピアニストが登場するコンサート・シリーズの中でのファジル・サイさんですが、前半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」をステージの真ん中で弾き、後半では自身の作曲による交響曲第2番《メソポタミア》の日本初演をステージの端っこで演奏した。つまり前半は協奏曲を弾くソリストとして、後半は作曲家&オーケストラの一員というひとり2役。

 

 いまだにナイーヴな天才青年のイメージがあるファジルさんだが、今や見た目は大御所感あふるるおじさま(と、あえて言ってみるが、彼もまた遙かなる年下男子よ)。でも、「皇帝」を弾き始める前にじーっと鍵盤を見つめてる(というか、ピアノと見つめ合っているように、という表現のほうが近いかも)様子や、オーケストラの響きにまるで微睡んでいるような表情になる時などは、彼の中にまだ“神童”がいて、ホントなら到達してもいい大御所の椅子に座ることをいやがってダダこねているような、そして、そのことを大人になった彼自身も歓迎して楽しんでいるような、そんな風にも見える。何よりも、その新鮮さを失わない痛快なタッチ、音色。もう100万回くらい弾いているであろう「皇帝」も、客席で聴いている私には、演奏者自身にとっての“今、この時”が映り込んでいる演奏に感じられた。

 うまく説明できないけれど、彼の弾く「皇帝」は時おりフッと音符が言葉になって心に刺さってくる。映像でいうと、意味のわからない外国語のドラマを見ていたら、いきなりヒトコトだけ日本語吹き替えになって、また外国語に戻るような感じ。なんだろう。かっこいい言い方、なおかつ身勝手な解釈ではあるけれど、今の自分の気持ちに共鳴している!と思ってしまう瞬間がくる。

 リスナーとして音楽、特にライブ演奏に対して抱く“リアリティ”のひとつ、として、「あ、私も今、そう思った」と感じる瞬間というものがある。以前、それは主にポップ・ミュージックでの話だったのが、ここ10年くらい、急激に“今”のクラシックが個人的に面白くなってからは、実はクラシックにもそういう瞬間があるということに気づいた。私にとっての“クラシック音楽”が非日常から日常のものへと変わったのはその、「あ、私も今、そう思った」ということがクラシックにもあり得ることを知ったことが大きいかも知れない。と、今日、ファジルさんの「皇帝」を聴きながら考えていた。ベートーヴェンを聴きながら「あ、私も今、そう思った」と感じることができる幸せ。むずかしいことはわからないが、私にとって音楽の楽しみはこういうところにある。

 ファジルさんの独特のアプローチは確かにクラシック・ファンには好みがわかれるところなのかもしれないけれど、彼の演奏をナマで聴いた時に実感する楽曲の生々しさというか、リアリティというのは、他にはないひとつの“真実”だと思う。コンサートが終わって家に帰ってきてもなお、まだ頭の中でピアノが鳴り響いているような余韻がずっと残っている。「記憶」というよりも、音がそこに「いる」ような不思議な感じ。

 作曲家でもあるピアニストは、ある意味、シンガーソングライターのような側面があるのかもしれない。余談になりますが、今、竹内まりやさんのRCA時代のアルバム再発シリーズのライナーノーツを書かせていただいていて、で、シンガーソングライターというのは、たとえ他の作家の楽曲を歌っている時でも“シンガーソングライター”なんだなぁ、と、あらためてしみじみと思っていたところなのですが、そのこととベートーヴェンを弾くファジル・サイさんを一緒に語るというのはさすがに無理がありすぎるのかもしれないとは思いつつ、今、自分の中ではものすごくつながったのでココに備忘録しておきます。

 

 さて。そして後半、本日のメインイヴェント。作曲家ファジル・サイにとって2作目の交響曲、“交響曲第2番 作品38《メソポタミア》(2011/12)の日本初演。タイトルどおりメソポタミアの文明の壮大な歴史を、現在のメソポタミア平原に暮らす若い兄弟を通じて描き出す全10楽章の大作。プログラムによればファジルさんが“オーケストラ・オペラ”と呼んでいる手法で、メソポタミア文明を象徴する神話や、大平原や大河といった風景、そして中近東の国々で起こる戦争やテロを想起させる表現、さらには現在の世界に対する思い、平和への祈りといったファジルさん自身の思いが交錯する。とはいっても私小説的なものではなく、むしろ大河ドラマという感じで、それでもやっぱり、トルコ出身のファジルさんにとっては自らのルーツを再訪するような私的な思いが随所から伝わってくる作品だ。7、8年前の作品で、しかも特に何か具体的な出来事に対して作られた作品ではないけれど、まさに今、この時代に向けたメッセージのようにも響いた。

 

 《オペラ》的に、“楽器”が登場人物になり、舞台美術にもなる。主人公である兄弟を“演じる”楽器はバスリコーダーとバスフルート。そして、メソポタミア文明の歴史を見守ってきた天使を“演じる”のはテルミン。そう、このコンサートはテルミンの演奏をナマで見られる貴重な機会でもあったのだ。しかも、オーケストラとテルミンの共演! 他にも珍しい楽器がどっさり次々登場、中にはこの交響曲のために考案された楽器もあったらしい。特にパーカッションは物語の緩急係(?)、効果音、時に“語り部”として重要な役割を果たしていて、数といい、リズムといい、音色といい、すべてにおいてものすごい存在感。ワールド・ミュージック好きな方にいろいろ訊いてみたいプリミティブな楽器も。演奏前、ステージにいろんな楽器がセッティングされている光景。それだけでも、もう、来てよかった!と思った。なぜだか、見たことない楽器ってお得感あります。

 

 太古と現在とが交錯する壮大な物語の全10楽章……と聞いて、実は、コンサートを見る前は『アルプス交響曲』をわかりづらくややこしくしたような作品ではないだろうかと怯えておりました。が、考えてみたらファジル・サイの作品。あの、キャッチーなフックの効いたフレーズで強烈なインパクトを与えるピアニストの“分身”のような交響曲が聴き手を置いてけぼりにするわけがない。現代から神話の世界へと旅する冒険映画を見ているような、あっという間の1時間。平和な日々を暮らす兄弟の無邪気さに頬を緩めたり、「月と太陽」「天使」といった荘厳な神話世界に魅せられたり、戦争を思わせるパーカッションと金管楽器の咆哮に怯え、銃弾に倒れる若者に涙し……。最後に奏でられるテルミンによるエピローグの幻想的な響きに、心の底から平和を祈る思いが自然と沸き上がってきた。終演後のものすごい拍手と歓声、スタンディングオベーションをする人もいて、いわゆる現代音楽で日本初演という事をハードルだと感じさせない熱い反応に、ああ、きっと感じることはみな同じだったんだろうなと思った。

 

 ふと、以前にも、この作品と同じように「音楽と一緒に“旅”をする」ような感覚をハッキリと実感できる音楽があったな……とコンサートを見ながらずっと考えていて、帰り道に思い出した。フィッシュマンズの「LONG SEASON」を初めて聴いた時に、似たような感覚を体験した。もう22年前のことだけど、あのアルバムを初めて聴いた時の感覚は今でも生々しく覚えている。《メソポタミア》が交響曲版「LONG SEASON」なのか、ある意味で「LONG SEASON」が交響曲的な宇宙を内包する作品だったということなのか。それは、これからよく考えてみないとわからないけど。

 

指揮者は、ファジルさんと同じくトルコ出身で、年齢も同じ70年生まれのイブラヒーム・ヤズィジさん。バスリコーダーはMCOにも客演奏者として参加していたチャアタイ・アキョルさん。バスフルートはビュレント・エヴジルさん。パーカッション軍に加わったアイクト・キョセレルリさん。以上みなさんトルコ出身で、ファジルさんとは気心知れた名手ばかり。民族音楽的な要素も色濃い作品だけに、いくら手練れの新日本フィルとて細かなニュアンスは難しいところだったのではないかと想像するけれど、指揮者・客演陣とのチームワークが素晴らしかった。

 そして、個人的にいちばんの感動は滝井由美子さんのテルミン。ひとり純白の衣装をまとい、舞台下手のいちばん前に楽器と共に座る姿は作品の“役柄”と同じく天使のようだった。テルミンで真っ先に思い出すのは「グッド・バイブレーション」なので、ああいうワイルドでお行儀の悪い使い方がデフォルトのように錯覚してしまっているが(いや、でも、あの曲でのテルミンはあれはあれでエレガントなのですが)。メロディを唄うテルミンの音色の美しさは、もう、言葉になんかできない。天上のサイケ。実のところ、テルミンがオーケストラと共演するのをナマで聴いたのは生まれて初めてだったのですが。いや、本当に“天使”役というのに納得。幻想的な体験だった。たったひとつの小さな箱から発せられる音が、大編成オーケストラの音色にも負けない……いや、負けるとか勝つとかではなく、どんな雑踏の中でも耳元でハッキリと聞こえる“天の声”のよう。最後、オーケストラの人々が静かに楽器をおろして耳を澄ませる中、いつまでも続く美しい音色。オーケストラが地上で奏でられるもっとも美しい音だとするならば、テルミンはまさしく天上から降り注ぐ黄金の音色。ブライアン・ウィルソンは「グッド・バイブレーション」で実験的な音楽をやりたくて“モンドな楽器”を用いたのではなく、きっと彼もファジルさんと同じようにテルミンに“天使の声”を聴いたのだ。