Less Than JOURNAL

女には向かない職業

 珍説・スコッティくんと氷川くん。

 昨日の続きです。スコッティ・マクリアリーとカントリー・ミュージックについて。

 カントリー=アメリカの演歌、と言われることには非常に抵抗がある。
 なぜなら、そういうことを言う人の93パーセントくらいはカントリーも演歌も嫌っていると相場が決まっているからだ。しかも、どっちもちゃんと聴いたことがない人が大半だ。衣装がギンギラ、サビがクッサイ、客がお年寄りと田舎っぺ……まぁ、せいぜいそんなイメージだと思っていることを言いたいがゆえに、遠慮がちに「カントリーって、アメリカの演歌ですよね」とおっしゃるわけだが。こちとらまるっとお見通しなんだよ(`Д´)。
 カントリーがアメリカの演歌だと言う人に、吉幾三とベックのプレスリー衣装が本質的にはまったく同じことであると言えば「ベックと一緒にしないでくださいよー」と、たいがい烈火のごとく怒る。まぁ、正直、オレも同じだとは思わないけどね(笑)。しかし、カントリーが演歌だとする人は、ベックとカントリーの深い結びつきすら否定しようとする傾向にあるのが、どうも納得いかんのだ。カントリーと演歌を結ぶには、まずは吉幾三とベックとプレスリーの三角形くらいはすぐに書けないとな。と思うわけです。そういう人は、たぶんボブ・ディラン三橋美智也をつなげて考えたこともないのでしょう。まぁ、ようするにロックンロールをどう見ているかっていう問題なので正解はないので自分が正解だと言いたいわけではないんですが。音楽にジャンルは関係ない、と言いながらジャンルの認識すらできないのはどうなのよと思うことが、まぁ、年に2〜3回はあります。

 ま、以上は机上の屁理屈です。


 あ、以下も机上の屁理屈です。


 『アメリカン・アイドル10』優勝者のスコッティ・マクリアリー君がどう面白いのかを説明するには、デビュー当時の氷川きよし君を例に挙げるとわかりやすいかなと思ったわけです。
 なので、カントリーは日本の演歌だというコトではないのですが、まぁ、そんなような流れのお話です。

 80年代まではポップスとロックと演歌が一緒に並ぶ歌番組があった。が、氷川きよしがデビューした時、少なくともヒットチャートやテレビのゴールデンタイムの中での「演歌」は完全に時代遅れなカテゴリーだった。まぁ、今でもそれほど状況が変わったわけでもなくて、演歌の人たちがたくさん出演する番組といえば「懐メロ番組」で、ヒット曲=懐メロに新曲が混じる……というカタチが殆どだと思う。

 演歌シーンでは若手も大御所も素晴しい歌い手がたくさんいて、名うてのソングライター・チームもたくさん活躍している。だから、もうちょっと演歌がポピュラーになってくれたらなぁというのは、関係者もファンも常に願っているところで。ただ、クローズドな「演歌」の世界にポピュラリティを求めようとすると、まず思いつくのが大御所にポップス系アーティストが楽曲提供する……みたいなことになる。まぁ、もちろん中には意外な顔合わせが生む奇跡的なコラボもあるわけだけど。なかなか相思相愛というのは難しいものだな、と思う。が、今なお昭和の「襟裳岬」シンドロームは続いているのか。そういうコラボをすることで「ポップス・ファンにも演歌を聴いて欲しい」という狙いはわかるのだが、演歌歌手が歌うポップスを聴いたところで「演歌ファンにはなりようがない」わけで。そのあたり、どうも、夫が金時計を売って妻に櫛を買い、妻は自慢の髪を売って夫に時計の鎖を買い……みたいな図式にも似て、なんとももどかしく思うことが多い。
 そういうカタチでの“歩み寄り”によってシーンの内側は活性化するかもしれないけれど、外側の世界へと影響を及ぼすのは難しい。ただ、演歌のプリンス・氷川きよしの登場は演歌シーンを確実に変えた。

 で、ここから本題なのですが。彼のどこがすごかったか。まさしくスコッティと同じなのだ。トラディショナルを《武器》にした、ということ。

 ルックスはアイドル/ビジュアル系で、デビュー曲は「箱根八里の半次郎」。
 この曲はいわゆる“股旅もの”と呼ばれる、演歌の古典的なジャンルだ。カントリーで言えば、ハンク・ウィリアムズやジョニー・キャッシュが西部開拓時代の無法者をストーリー仕立てで歌ったホンキー・トンク・ナンバーみたいなもの。
 あまり演歌を聴かない層にも向けて発信されていることは明白でありながら、その核となる音楽性はとことん「演歌」にこだわっている。そこがすごいと思った。そして、実際、こだわるだけあって歌の巧さに驚いた。「歌が巧い」というなら他にもいるが「演歌が巧い」と思った。自身、演歌の難しさを身をもって知っているからこそ、まずはそのジャンルを極めるべく努力する姿勢を常に崩さない。そういうストイックなところも、ある意味伝統芸能の世界に通じるような感じがして好感度が高かった。ゆえに聴き手であるファンもまた、そのアイドル的ルックスから想像されるアイドル・ポップス風の世界を求めるのではなく、彼が歌う「演歌」にこそ唯一無二の魅力を感じたわけだ。

 スコッティが自らのスタイルを決して崩すことなくファイナルまで勝ち進んだように、氷川きよしも音楽的には一瞬たりとも道を踏み外さなかった。
 ショービズ界でいう“化学変化”とは、こういう風に起こるものなのかと。

 当時、制作を担当したプロデューサーのインタビューが面白かった。デビュー曲として“股旅もの”を選んだのは、このジャンルが最近の演歌界から消えつつあるからだ……というようなことを話していた。まさに、カントリーにおけるホンキートンク・リヴァイバルと同じ視点である。しかも、本来の股旅ものは歴史上に実在する人物を歌うのがセオリーだった。たとえば森の石松とかね。しかし、「箱根八里の半次郎」は実在する人物ではない。“あえて”架空の人物を主人公に据えることで、新しい演歌を作りあげたというのだ。うーん、ここまで確信犯だったのか! そのくだりを読んで、ひっくりかえった。氷川きよしというプロジェクトは、演歌界におけるネオトラディショナル・ブームの確信犯だった。演歌の中でも、過去のものとなりつつあるジャンルをあえてとりあげる。しかも、ただカヴァーするとか古っぽくやるのではなく、あくまで“新しい音楽”として「21世紀の股旅もの」を創造する。アイドル的なルックスとか、そういうパッと見の“新鮮さ”以上に、このプロジェクトでもっとも新しいチャレンジは音楽面での深さ――演歌の再構築というものだった。
 その後の氷川きよしは股旅ものにこだわらずさまざまなジャンルを歌っている。が、今も、多かれ少なかれトラディショナルな匂いというのは失っていないところが頼もしいなと思う。それにしても、とりわけ初期は完全にルーツ・ロック作戦だった。アイドル的な人気がぐんぐん高まっていく中でも昭和演歌の名曲をカヴァーしたミニ・アルバムをシリーズ化したり。特に驚いたのは、5枚目の「白雲の城」で三橋美智也の民謡+演歌(まさにルーツ・トラディショナル)の世界観を現代に蘇らせた時だ。あの若さで、しかもアイドル的な使命もずっしり背負いつつ、もはやヒストリアン的に緻密な誠実さをもって演歌再構築をやってのけるとは。アカデミックな追求と、人気シンガーとしてのポピュラーな存在感。そのバランスも素晴しかった。
 ここまでのこだわりは、ある意味、「もしもナイアガラ的な発想で演歌をやったら」みたいな感じだなぁと思った……て、あ、コロムビアだ(*゜∀゜)。

 今シーズンのアメリカン・アイドルでは、スコッティ君はいつもジャッジたちから「自分のスタイルを崩すな」「どんな曲が来ても、その個性で押し通せ」と言われ続けてきた。アメリカン・アイドルというのは、どんなタイプの曲でもこなせないと勝ち進めない。それもあって、けっこうクセを直されちゃったり、違う方向性になったりする出場者も多かった。それを思うと、何を歌ってもオレ流カントリーにしちゃうスコッティの優勝は快挙だなぁと思う。今後のプロとしての活動でも、その個性はぜひとも生かしてほしい。演歌で言うところの「箱根八里の半次郎」、あるいは「白雲の城」みたいな曲も来るかな?