Less Than JOURNAL

女には向かない職業

「ミッション・ソング」

 ちょっと前のことになるけれど、ジョン・ル・カレ大先生の新刊『ミッション・ソング』(2006年)が出たので感想メモを。

 実は、不覚にも昨年12月に出たのを気づかなかったという。よりによって待望の新刊になぜ気づかなかったかなぁ。
 ばかばか、自分のばか。゚(゚´Д`゚)゚。。

 ル・カレの新刊といえば、昔はミステリ界の花形イメージがあった。しかし、最近は書評でも「相変わらず難解な」とか「翁、お元気だな」とか、お決まりの社交辞令でさらっと流されることが多くなった。というか、あんまり書評も見かけないし。うーむ。それがちょっと淋しい。難解というよりも、けむたがられている? 彼の書くような作品は、昨今のご時世向きではないからなぁ。まぁ、たとえば、あれだな、若いロック・ファンが、ディランやスプリングスティーンの新譜に興味はあるものの「いきなり新譜からってのは敷居高いんスよねー。でも、今からさかのぼって昔のを聴くのもたるくないスか?」とか言うのと同じことなのか( ̄〜 ̄)。

 確かに、歳をとって話が長くなったというのもあることはある(笑)。多少はね。
 主人公の目前にある事象から、いきなり説明もなく回想に飛んだり。そこにいない人が話しかけてくる妄想と現実での会話がゴッチャになったり。比喩や暗喩が唐突にまぎれこんできたり。そういう、もともと読みづらい独特の文体がよくも悪くも円熟して、よけいにまどろっこしくなっているといしたら、まぁ、確かにめんどくさい。翻訳者の苦労もしのばれます。ただ、本作の後書きにもあったけれど、あいかわらず難解だ難解だと言われ続けているわりには、近年は語り部としてはずいぶんサービス精神が見られるというか。まどろっこしいと同時に、けっこう丸くなってきた部分も多い気がするけど。どうだろうか? 美しい夫婦愛ストーリーとして映画化された『ナイロビの蜂』のように、人間というものに対する慈しみの心についても、昔よりずっとあからさまに描いているように思うし。時には、ややセンチすぎるのではと思うくらい。本作も、クールで淡々として……と油断していると、いきなり泣かせる。いや、ずるいわ。ホントに、ここで泣かせるかと。

 前作『サラマンダーは炎の中に』(2003年)も今作も、邦訳が出るまでの時差が5年ほどあった。なので、正直、いよいよ翻訳が出なくなるのかと諦めてもいた。今までも邦訳を読んだあとに原書をつまみ読んだりするのは好きだったんだけど。さすがにいきなり原書は敷居高いです。ワタクシのオツムではムリ。なので、翻訳が出ますようにと祈ること5年。そういえば、オフィシャルサイトに嘆願メール送ったこともあったな。まぁ、実際、そこに送っても意味ないのはわかってはいたのですがね。

 そして先月、ようやく読ませていただきました。で、名残りを惜しんでチラチラ読み返したり、あらためて原書を引っ張り出してきてみたりしている今日このごろ。


ミッション・ソング (光文社文庫)


 『ミッション・ソング』は、『ナイロビの蜂』に続くアフリカもの。今度の舞台は東コンゴ(旧ザイール)。内紛の続く地域、部族間の平和的統治を名目に、その水面下でうごめく魑魅魍魎……。実際、本作が出版された2006年はザイール共和国が激しい内戦を経てコンゴ民主共和国になった年でもある。そこに至るまでの民族間紛争、大量殺戮、略奪、暴行のすさまじさ、豊富な天然資源を目当てに援助を申し出るも、悲惨な現状の解決には無関心な諸外国政府や、利権を争う大企業の駆け引き……といった現実問題(ちゃんと説明する自信がないので、あとは各自ご参照くださいますよう)を丁寧に描きつつ、問題の本質をフィクションの中であぶり出してゆく。
 翁、冴えておられます。
 さすがでございます。
 ストーリーテラーとしては円熟を迎え、正義への情熱はますます熱く、怒りのパワーはより鋭く冷徹さを増していて。今年で81歳ですよ。田原総一朗より3つ年上かぁ。こんな素晴しい作家の作品をほぼリアルタイムで体験できていることを、今さらながら本当に幸せに思う。

 で、主人公のサルヴォ。
 28歳、イケメン(死語)です。

 アイルランド人の宣教師とコンゴ人女性との間に生まれ、いろいろ複雑な事情にてイギリス人としてイギリスに育った褐色の肌の若者・サルヴォ。語学の天才で、英語、スワヒリ語、東コンゴ各地の数種類語、フランス語などを駆使する敏腕通訳としてロンドンに在住。それなりに慎ましく平凡な市民として静かに暮らしていたが、ある日、自らの心に嘘をつくことができなくなり、無謀にも国際的陰謀の中へと飛び込んでゆく……と。立場は違うが、どことなく『ナイト・マネジャー』のジョナサン・パインを彷彿させるところがある。サルヴォは、久々のジョナサン・パイン級のイケメン系キャラだし。しかも、若いし。おしゃれだし。どうやらオンナにもモテそうな様子。複雑な生い立ちと若さゆえの精神的な未成熟さと無謀さは欠点でもあるし、長所でもある。と。

 ちょっとオレ様キャラなところもあったり、わりとキャッチーな主人公設定。
 しかし、まぁ、確かにやっぱり、ル・カレはどうしたって珍味系ではある。
 じわじわ状況を積み重ね、無関係な話をまき散らし、焦らしに焦らし、ある地点まで到達した瞬間、終盤に向かって一気に加速してゆく。そういう、もったいぶったジェットコースターみたいな醍醐味がル・カレ作品の本領なわけで。今回も、その味わいは健在。健在どころか、焦らしすぎ。歳をとって話が長くなったぶん、ますます辛抱強くなったようだ。翻訳で文庫470ページ強の物語、5分の3あたりでようやく話が回りだす。
 そこまで何をしているかというと…………ずっと会議(笑)。
 主人公の職業が通訳で、たまたまコンゴの和平(と利権)をめぐるヒミツ会議に出席することになって、おかげで新聞やテレビで見ていた国家レベルの大物たちの素顔がだんだん見えてきて……という物語なので、まぁ、会議が長いのは仕方ない。が、それにしても基本的にずっと会議って。「あー、今日も1日会議ばっかでイヤになるなぁー」みたいな小説って、こう、息抜きとしては不向きだわなー。
 それでも、この、読んでいて息苦しくなるような会議を進めながら、読者をジワジワからめとってゆくような“焦らし”のテクニックはさすが鮮やかで、痛快で、クセになるわけで。目で物語を追う以上のスピードで、気がつくと自分も物語に巻き込まれてる感。これぞル・カレ読みにおける「ああ、これこれ、この感じ(苦笑)」という至福の瞬間だ。

 数カ国語に精通した「通訳」という職業は、主人公の複雑な生い立ちのメタファーでもある。映画『バベル』にもあった、聖書に語られる“言語”という境界線。父はアイルランド、母はコンゴ、育ったのは英国……どこの国とも通じ合っているし、どこの国からも遠い。自分はどこから来た、と言えるのだろうか。それをずっと自問自答してきた人生。

 混乱したアイデンティティを背負いながら、彼は自らが正しいと思う道へと踏み出してゆく。ただし、正しい道に踏み出したように見えても、反対側から見れば道を踏み外したようにも見える。日本に生まれて日本に育ったことが、自らの内側から聞こえてくる声の正しさを判断する手がかりになってくれるとは限らない。そのことは、この1年でイヤというほど思い知らされた。読みながらつい、そんなことも考えてしまう。自分だったら、己の「正義」はこれだとひとりで判断することができるだろうか。と、自分自身にも重ね合わせてしまう。

 ル・カレは、男のスパイや政治家を描くのに比べて女性の描き方がぞんざいだと言う人もいる。が、私は彼の描く女性が大好きだ。みんな、それぞれ色っぽい。
 美しいとか頭がいいとか育ちがいいとか、イジワルだとか優しいとか、そういう大まかで極端な設定だけで「つまり、イイ女なのでR」みたいな、説明不足系美女が多い。それを女性蔑視と解釈するか、あるいは女性崇拝と解釈するかってことなのだが。説明不足すぎてミステリアスな女性像に、ル・カレ先生の「権謀術数渦巻く世界よりも、女のほうがずっと複雑で厄介ですワ(むふふ)」というチャーミングな照れを見てしまう。男が男として生まれた理由はガッツリ説明が必要だけど、女が男に生まれなかった理由に説明などいらぬわ……てことかな。とかね。心の描写がゆるいぶん、男性目線ならではの“目で犯す”的なエロチックさもある。だから大好き。ひいき目ですが。

 『ミッション・ソング』では主人公の妻として、裕福な上流階級出身で大手タブロイド紙の花形記者で、夫の魅力をちっともわかっていない性格ド悪女=ペネロピが登場する。まるで昭和の少女漫画の悪役みたいにわかりやすい。が、同時に、彼女がどことなくスマイリーの奥さん=レディ・アンを思わせるところは興味深い。ペネロピもアンも小説中ではさんざんな書かれようだが、ル・カレ自身としては嫌いじゃないタイプだと思う。
 じゃなかったら、あれほど知性あふれる冷静な主人公たちがわざわざ性悪女を選ぶ理由に説明がつかないし。

 あと、女性がらみのネタとしては、些細なことだけど、ペネロピと不仲で上昇志向の強い義妹が「ここぞの時に使う武器」だとして、“再会(ジュ・ルヴィアン)”という名の香水が出てくる。ある女性がつけている香りから、主人公は妻同様に性格悪そうな義妹を思い出すのだ。“ジュ・ルヴィアン”というのはたぶん、フランスのWORTH(ウォルト)という老舗ブランドの香水のこと。ちょっと意外な、珍しい小道具にびっくり。なにか思い入れがあるんだろか? ありきたりなシャネルNo.5とかじゃなく、しかも結構うんちくまで語っているところが謎だけど素敵。そういえば、東コンゴ新興財閥の二代目(ソルボンヌ大学出の西欧かぶれ)としてヒミツ会議に登場する男が全身“ゼニア”の最新コレクションで身を固めている(しかし、あんまりセンスのいい着こなしではない)というのも、いかにもな設定で面白かった。*1 これまでの著作でもそうだけど、彼は服装に関する描写がナニゲにうまい。特に女性については。ブランドとかディテールをくどくどかき立てるタイプではないけど、女性らしさのアピール・ポイントを心得ている感じ。


ミッション・ソング (光文社文庫)

ミッション・ソング (光文社文庫)



 ちなみに、本書に続く未訳の最新刊はあと2冊……どうか翻訳が出ますように。お願いします。あ、でも今年は新刊ではないけれどビッグ・イベントがありますね。楽しみ。

 そう。映画というビッグ・イベントです。

 ついに日本公開が近づいてまいりました。


 去年、ブライアン・ウィルソン公演を観にロンドンへ行った時がちょうど英国での公開日で。

↑地下鉄の駅にスマイリー。かっこよすぎる……。

 本屋では『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が、『セックスアンドザシティ』の番外編と、バンパイヤもののノベライゼーションとレジのところで山積みされてた。観られなくて残念だったけど、こんなに早く日本公開されるなんてうれしい。


ただねぇ………………。


でもねぇ………………。


 あ、この件は次回のエントリーにて。

*1:翻訳では“ゼグナ”になっているのがちょっと惜しい。