Less Than JOURNAL

女には向かない職業

そんな自分がいました(笑)。


 演劇。「アート」でいいのか? でも、他にカテゴリがないので、まぁいいか。

《フェスティバル/トーキョー09 春》@にしすがも創造舎
 『95kgと97kgのあいだ』蜷川幸雄

 会場は、西巣鴨にある廃校になった小学校校舎の体育館(よく演劇関係の稽古場として使われている)。蜷川幸雄が芸術監督を務める彩の国さいたま芸術劇場で創設した55歳以上の人たちの劇団《さいたまゴールド・シアター》と、横田栄司さんらプロ俳優たちの共演。ゴールド・シアターは、初の県外公演だそう。ゴールドとプロ、それぞれが40人近くずつ出演するという(!)ものすごい出演人数だし、稽古もずいぶん時間かかるようだし。やはり、あちこちで公演するのは予算的にも難しいのだろう。東京都が主催する文化祭《フェスティバル/トーキョー》は、今ひとつ筋道が見えないセレクションというか、マニアックで前衛な出し物が多すぎて今ひとつ興味がなかったんですが。この劇団を、こういう機会のおかげで見ることができたのはうれしい。都知事グッジョブ。ナイスお役所仕事。オリンピック招致については、賛成保留ちゅうだがね(笑)。

 友人の太田馨子さんが出演していて(ゴールドじゃなくてプロ組で)、西巣鴨なら近所だし見に来ない〜? と誘われて、昨日の公演を見てきた。

 20年以上前に書かれた清水邦夫の作品で、物語についてはまぁ、どう説明していいのかわからない不条理なややこしいお話なので詳しくは書きませんが(笑)。ざっくり説明すると、プロの役者たちの演じる若者たちが、行列を作る人々があーだこーだやっている『行列』なる戯曲の稽古をしていると、そこに突如、かつて『行列』を演じた(らしき)老人たちの《一群》があらわれて……という、《行列》と《一群》がおりなす物語。老人たちは、ひとりの青年の号令に従って黙々と輪になって“重い砂袋を担ぐ演技”を始める。題名にある95kgと97kgというのも砂袋の重さ(のイメージ)。95キロと97キロ、ほんの2キロの違いの中にあるものは……という、そんなお話。不条理。難解。言葉にすると、そういうことになっちゃうんですが。

 なんだかものすごく、驚くほど素直な気持ちで感動している自分がいて。

 最近、よく若者が「〜している自分がいて。」と言いますわな。
 わたし、その言葉遣いが大嫌いなんですけど。今回に限っては、こーゆーのを「〜している自分がいて」って言うのかな……なんて思った。屈折した自分が幽体離脱して、素直な自分を俯瞰で見てるような。そんなフシギな感覚。最後、自分でもなぜだか理由がわからないまま、涙が溢れて溢れて止まらない自分がいたのでした。ストーリーに心を動かされてとか、その場の雰囲気に流されてとかいう、頭で考えてから出てくる感動ではなくて。こんなこと自分で言うのもヘンですけど、不純物ゼロの感動が自然にこみあげてきたという感じ。頭でなく、心に直接きた。こんな風に素直に感動できる自分がいた(笑)という事実に、とにかく驚愕。

 なによりも、ゴールド・シアターの役者さんたちのエネルギーの凄さに圧倒されたのだと思う。本当に、ものすごい。説明できないすごさ。失礼な話だけど、以前にこの劇団の噂を聞いた時は、ほのぼの《シルバー劇団》みたいなものだと想像していた。が、全然ちがう。ごめんなさい。革命的にすごい。基本的にはシロウトさんで、しかも55歳から80代までという高齢の方々が、バリバリにきびしい蜷川流の演技トレーニングを積み重ねているのだ。で、その日々の修練の末、砂袋を担ぐ演技をえんえんと続ける中で、個々の肉体が発するエネルギーがストーリーを大きくうねらせてゆく……という、まさに蜷川ワールドならではのダイナミズムを、圧巻の存在感で体現してみせてくれるのだ。

 とはいえ、当然、プロの役者さんとは全然違う。この作品では、プロ役者集団と絡むことで、その違いがクッキリと出る。で、プロの役者さんたちは、これまたやっぱりプロは凄い!という実力を見せつける。でも、ゴールドの人たちの肉体からは、プロの人たちの演技とは別モノの、わたしが今までに想像したこともない類のバイブレーションが伝わってくる。その「違い」が、めちゃめちゃ面白い。

 演技がいい悪いとか、そんな価値観でモノを見ることが愚かに思えてくる。その「違い」というのは、いいとか悪いとか、うまいとかヘタとか、そんなことじゃなくて。「異なる」ことの素晴らしさを教えてくれる、という意味での「違い」。まったく異質のエネルギーが舞台上でがっちりと絡み合ったり、ぶつかったりする。登場するふたつの集団は、役柄上と同様の「若者と老人」の対峙であると同時に、「プロと非プロ」の対峙でもある。そのガチンコ勝負が、物語をスリリングに加速させてゆく。1時間半くらいの短い上演なのだが、その間まったくの異空間に《連れていかれる》感じ。舞台も客席もみっちり一体感がある狭い会場の中で、次々とミラクルを目の当たりにした気分。大袈裟じゃなくて。

 ゴールド・シアターは、蜷川幸雄の「年令を重ねた人々が、その個人史をベースにした身体表現によって新しい自分に出会う場を提供する」ための集団作りという構想から始まっているという。この舞台を見ると、その意味も一目瞭然。それぞれ長く壮大な歴史=ストーリーを持った人たちが肉体を極限までトレーニングすることで、体内に直接刻みこまれた《記憶》が覚醒して、演技という行為を通じて発露していくのか。て、なんか、高校の演劇クラスを思い出した(軽くトラウマ)。でも、あのころボンヤリ聞いていたようなことを、今頃になってやっと肌身で実感できたってことかなー(笑)。高齢化社会、最近はシルバー層のためにいろいろな文化事業もおこなわれているけれど。この劇団は、高齢者に楽しんでもらえるような、負担にならない程度の娯楽を提供する……みたいな生やさしいものではなくて、思いっきりキビしく、めちゃめちゃ高いハードルを突きつけているわけで。が、そのぶん、稀代の演出家が年令を重ねた人々に抱く、とてつもなく深い敬意が伝わってくる。そもそも「シルバー」じゃなくて「ゴールド」という命名からして、ものすごいリスペクトがある。そして、そういう人々の心身にこそ宿る成熟したエネルギーを、新たな芸術表現として確立させられるか……という過激な、奥深い野心も感じる。すごいや。

 終わってから、友人と共に近くの鉄板焼き屋に。で、ゴールド・シアターの人たちのものすごい頑張りぶりとか、カッコいい逸話、微笑ましい逸話などなど聞かせてもらった。友人も、同じ空間で芝居をしていると、そのエネルギーに圧倒されるし、学ぶことが多いと。で、わたしと同じように、やっぱり、理屈を超越した涙がこみあげて止まらない時があると。メンバーの中には途中で病に倒れても頑張ってレッスンを続けて、お医者さんが奇跡だと驚くほど回復された……という方もおられるそうだ。
 「人間には無限の可能性がある」とは言うけれど、ふだんの生活では今ひとつピンと来ない。そもそも、自分に限界がないとは思えないし(笑)。だから反射的に「とは言ってもねー」と、ツッコミを入れてしまうが。無限の可能性とはどういうものかを、こうして現実のカタチあるものとして見せられたら、ね。もう、返す言葉もございません。なんつーか、もうこんな年令だから頑張れませんヨとか、今さら夢なんて見るだけムダだしーとか、人生に疲れちったわとか……そんなこと言ってる自分は恥ずかしい! なんと愚かなのか! と猛省。
 人間、生きてるだけですごい「表現」なのだから。なんとなく生きてたらもったいない。年令を重ねるって、すごいことだね。で、人生まだまだ、これからだねー……なんて、女ふたりでしみじみ語りあいながらワイン2本あけちゃったよ。て、あれ……ふたりで2本て、ひとり1本じゃまいか!!  ひえー。