Less Than JOURNAL

女には向かない職業

真夜中のバレリーナ

高岡早紀といえば、バレリーナ

黒木瞳中森明菜、さらには高岡早紀と、ロックを踊る火星人*1ならぬ“バレエを踊る女優”がずらり揃ったドラマ『プリマダム』では、久々にバレエを踊る高岡早紀の姿を見ることができる。が、わたしはそのドラマを見ない。先日、番宣番組でちらっと早紀ちゃんのバレエの場面が映った。ああ、やっぱりキレイだなー。主演の黒木さんや明菜ちゃんもステキだが、わたしの目には、高岡早紀の凛としたたたずまいがダントツに輝いて見えた。
が、それでも、たぶん最終回まで『プリマダム』を見ることはないだろう。
「女優の」とか「最近の」という説明なき場合、わたしにとっての高岡早紀はすべて、88年から91年までの音盤の中にいた、美少女アイドル歌手としての高岡早紀を指す。バレリーナに扮して岡田真澄と共演した某靴メーカーのCMソングでもあるデビュー曲「真夜中のサブリナ」から、91年春リリースのベスト・アルバム『Mon cher』までのわずか3年あまりの間に、加藤和彦森雪之丞高橋幸宏ら、名だたる音楽界のクセモノおじさまたちにメロメロでデレデレな名曲の数々を書かせ、ただひたすら音楽という道具だけで、奇跡のドラマを見せてくれた伝説の――いや、幻想の美少女。それがわたしにとっての高岡早紀。ちなみに、この時期の音楽以外のアイテムであるバタアシ金魚とか、フルーツインゼリーとかは、わたしにとっては別ジャンルの高岡早紀なので興味の対象にはない。さらには、それ以降――厳密にいえば91年秋、現時点で歌手としてのラスト・アルバムとなっている『S'Wonderful』から現在に至る高岡早紀も、これまた自分の中では別ジャンルである。もちろん、歌手時代以降の彼女はますます美しくなり、女優としてもアイドル歌手時代とは一線を画す才能を発揮しているし。リスペクトの思いと共に活躍を応援してきた。が、やっぱり、わたしの想い出としての高岡早紀は、あの3年間に尽きる。その短い季節の中で聞き手のあらゆる想像も妄想も超越し、美しい奇跡中の奇跡を見せてくれたアイドル歌手としての輝きは永遠に忘れることはないだろう。
それほどまでに、あの3年間は奇跡。音盤の中に刻まれた高岡早紀という存在、それはあまりにも凄すぎた。正直、アイドル歌謡という範疇にはまったくあてはまっていなかった。むしろ、最後の『S'Wonderful』でようやくオシャレ系のアイドル・ポップス……みたいな(←ジャンルがあるとしたら)領域に足を踏み入れたといってよい。ただ、この時にはもう、無垢で、無防備で、退屈で、無欲な……あの、アイドル歌手としてはありえないノーブルな世界観は終焉を迎えていたのである。でも、それは否定的な意味合いでの“終焉”ではない。いわば必然。『S'Wonderful』は、それ以前の作品が持つ世界とはキッパリと一線を画している。が、そのかわりと言ってはなんだが、このアルバムには当時の高岡早紀自身のリアルな存在感がある。別ジャンル、としては好きなアルバムだ。新しい世界への旅立ちなのか、夢から現実への回帰なのか。架空の世界と現実との境界線が、このアルバムだったのかもしれない。
高岡早紀のデビュー当時は、シャルロット・ゲンズブールのデビュー・アルバムの余波が日本の歌謡界沿岸にも上陸していた時期であり、当然、似たようなものはA級からD級までいっぱいあった。たとえば河合その子も、その筆頭にあげてよいだろう。で、数多の「シャルロット調にやろう」というプロジェクトには、おそらくプロデューサーやソングライター側の「ゲンズブールワナビー」的なモチベーションも少なからずあったと想像されるが。このジャンルに限って言えば、そういうワナビーズの類に比べるまでもなく、加藤和彦が一枚上手であったことは間違いないわけで。なので、デビュー曲「真夜中のサブリナ」もまた、CMにおける「ファンファン大佐ゲンズブール」の構図に象徴される、かなりザックリしたスタート地点が透けて見えるコンセプトでフツウに“流行”のフレンチ・ロリータ歌謡をやろうとしていたとしても、加藤和彦の思惑としては、それでも、ちょっとだけヨソと違うハイブラウなものを……となるのは当然のこと。で、その思惑は、ある意味、高岡早紀の無意識の資質によって思惑以上のものへと昇華した。しかも、結局、この曲も、その後も、イメージ以外はひとつもシャルロットは関係なかったし。
「真夜中のサブリナ」の主人公の少女は「恋なんて簡単よ」と、何の疑いもない口調で無邪気に呟く。ホントは簡単じゃない。長い人生を俯瞰で眺めれば、そう呟いた時の少女は間違っている。けれど、その短い瞬間においては少女は絶対的に正しい。全人類が間違っているとゆっても、その瞬間、その空間においては彼女だけが正しい。
刹那の無敵モード。
その、少女だけに許される傲慢を、彼女が「歌」というカタチでこれほどまでに完璧に――しかも、まったくの無意識のうちに、ものすごく深い部分まで体現していることに、あれから20年近くも経った今も、曲を聞くたびにビックリさせられている。で、この、彼女が持つフツウでない資質の「気配」に、加藤和彦安井かずみをはじめとするハイブラウな制作陣が気づかないはずはない。そもそも偶然か必然か、そういう「気配」にとりわけ敏感な人々が彼女の周囲に集まっていたのも奇跡だな。で、彼らは、ゲンズブール的というよりもむしろポランスキー的と言えるかもしれない「ロリータ」解釈……自分の欲しいものがわからない少女たちに特有の、他人を翻弄されるでもするでもない「無」の気高さ、みたいなテーマに貫かれたひとつの物語を、その後アルバム3作(+ベスト盤)にわたって歌手・高岡早紀に演じさせることになるのであった(←大映ドラマ風に)。じゃじゃじゃーん♪ まぁ、以上は妄想8割くらいの話だとしてもだ。実際、当時いろいろ出てきたシャルロット・ワナビーの中で、精神的な部分まで含めていちばんシャルロットに近いものをもっていて、なおかつ「日本という風土におけるシャルロット的」というリアルさを体現する条件をもっとも満たしていた歌手は高岡早紀だったというのは、あながち間違いではない気がする。

それでもたぶん、わたしは『プリマダム』を見ない――というか、なんとなく見たくない気がする。なんでだろう。おとなになった早紀ちゃんを見たくないのか。いや、そういうわけでもない。が、バレエが絡んでくるとなるとなぁ……高岡早紀には永遠のプリマドンナであって欲しいがゆえに“プリマダム”はスルーしたいというワガママなファン心理なのかも。いや、それも違う。あ! わかった! たぶん「こっそりバレエを習い始めたバツイチ35歳生保レディー」という、あんまり華があってはいけないバレエ素人の役柄でありながら、ひとたびバレエを踊り始めると隠しようのないエレガントな仕草が滲み出てしまう高岡早紀を見てしまったが最後、かつて自分を惑わし翻弄し、あげく理由も告げず去ってしまった激マブの美少女が、今、いかにも平凡だが幸福な主婦っつー感じで、しかも超わかりやすく、家族と連れだってスーパーの袋を抱えて楽しげに歩道を歩いているところを、たまたまリムジンの窓から見かけて、久しく忘れていた遠い日の甘い後悔が思いがけず微かな痛みとなって胸を刺したことに苦笑しながら、フッと蝶ネクタイをゆるめて遠い目をしちゃったりする岡田真澄……みたいな心境になるに違いないから、だ。わかりやすくいえばね(わかりやすくない)。しかし、いかに捻れてるといわれようが、歪んでるといわれようが、それがわたくしにとっての高岡早紀なのですから。

まぁ、事実としては、おっちゃんは今、毎週水曜日は野球中継が忙しくてなかなか『プリマダム』を見るヒマがないってだけの理由なんですがね┐(  ̄ー ̄)┌

*1:1958年、シェブ・ウーリーのヒット曲。原題は「Purple People Eater」。大滝詠一プロデュース、さくらももこ日本語詞のカヴァー「針切じいさんのロケン・ロール」(歌・植木等)も有名。……て、何も今さら書く必要もないことだが、たまには脚注を使って脚注っぽいフレーズを書いてみたくて書いてみた(笑)。