Less Than JOURNAL

女には向かない職業

ハルサイ。

 とりいそぎの、覚書クオリティですが。

 クラシックのアルバムでこれほど待ち焦がれた新譜はないし。そもそも、次の録音では何を演るのだろうか……と考えてワクワクしたのも初めてのことだ。

 昨秋、弱冠28歳でLAフィルの音楽監督に就任したカリスマ指揮者グスターボ・ドゥダメル率いる、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(以下SBYO)。ほぼ年1作ペースのアルバムも、これで5作目。ベートーベン、マーラーチャイコフスキー、そして南米の作曲家の作品を中心とした企画盤に続いて、遂にハルサイ。待望の「春の祭典」が登場。

Le Sacre Du Printemps Revueltas: La Noche De Los Mayas


『RITE』Stravinsky/Revueltas
SIMON BOLIVAR YOUTH ORCHESTRA OF VENEZUELA
指揮・GUSTAVO DYDAMEL

※日本盤は6月23日発売。



 複雑に絡み合うリズムが暴力的なまでに攻め立てるストラヴィンスキーの「春の祭典」(1913年)。そしてカップリング(とは言わないけど)に選ばれたのはメキシコの作曲家、シルベストレ・レブエルタスによる「マヤ族の夜」(1939)。もともとは映画音楽として書かれた曲で、変拍子に不協和音、アジア大陸的旋律、プリミティブなダンス・ミュージックの要素、そして壮大なロマン派テイストもあり……と、ロックで言えばミクスチャー・ロックというか、ワールド・ミュージックというか。とにかく、ハルサイ以上に激しくて型破りな作品。

 前作『FIESTA』でも、アルバムの1曲目にレブエルタスの代表作である交響詩「センセマヤ 蛇殺しの唄」が収録されている。ということで、常に南米の作曲家を積極的にとりあげてきた経緯もあり、この選曲はごくごく当然の流れではある。が、ストラヴィンスキーと、彼に大きな影響を受けたといわれるレブエルタスという取り合わせが興味深い。

 確信犯! 彼らが得意とするリズム要素の、他のオーケストラとの差異をもっとも印象的に見せるであろう「春の祭典」があり。加えて、おそらく欧米のどんなオーケストラよりも親密な距離感をもって表現できる自信がある(に違いない)「マヤ族〜」を組み合わせるとは。うまい! 今作『RITE』は、ドゥダメルとSBYOが今まで築きあげてきたオーケストラとしての音楽的な自信の上に、自らのアイデンティティを大爆発させている。

 まったく、なんてカッコいい(T_T)。

 ハルサイにしても、「マヤ族の夜」にしても、リズムが難解になればなるほど華やかで生き生きと輝きだす瞬間は、まさにSBYOの面目躍如。特に、さまざまな民族音楽的要素が融合された「マヤ族の夜」のクライマックスである第4曲「呪術の夜」は圧巻。なんか、クラシック音楽のオーケストラというよりもファニア・オールスターズか!?てくらいの、打楽器と管楽器の応酬にトリハダが立つ。クラシックでも、ファンクでも、フリージャズでも……さまざまなカタチをしたミクスチャー・ダンス・ミュージックの行き着く先は、いずれもプリミティヴな宇宙ってことなのかな。

 SBYOの母体であり、ドゥダメルという希代のカリスマを生んだベネズエラの音楽教育システム《エル・システマ》。そのドキュメンタリーを見てわかったことは、《エル・システマ》は日本の音楽教育とはまるっきり逆の教育がおこなわれているということ。
 最初にリズムありき、なのだ。
 子供オーケストラは音程やメロディがバラバラでもいいから、まずはみんなで《ビートを出す》ことを徹底的に教え込まれていた。先天的なリズム感が日本人とは全然違うだろうし、得意なところから伸ばしていく…ということなのかもしれないけど。とにかく、リズムという太い幹からすべてが始まっている。リズムありき、という発想。そこから合奏という概念を、カラダで覚えていく。こんな風に音楽を教わったら、たぶん日本の授業で習う音楽とは違うものが見えてくるはず。
 そういった過程を含めて、指導自体はめちゃくちゃ厳しいのだけれど、音楽の本質的な《喜び》の部分が全然ブレない教育だなという点にホントにビックリした。エル・システマというのは、クラシック音楽に限らず、もっと大きな意味で《音楽》の喜びを体現することに長けた演奏家を育てるナンバーワン機関なのかもしれない。

 イギリスのBBCプロムで世界中の注目を集め、来日公演のアンコールでも披露された「ウエストサイド物語」での愉快な“マンボっ!”のパフォーマンスとか、欧米のエリート教育からは想像もできないスラム育ちの楽団員も多い《アパッチ野球軍》的な成り立ちとか、イメージとしては陽気なラテン系ノリの異色セミプロ楽団…みたいな誤解もある。実際は過酷な競争と訓練で鍛え上げられた、軍隊のように正確で緻密な演奏をも身上とするオーケストラでもある。が、そういった技術的な面に注意を払うことを忘れてしまいそうなくらい彼らの演奏は楽しい。音符にできる楽しさではなくて、なんというか、ひとことで言えば、音と音の間から「歓喜」があふれ出しているようなポジティヴなエネルギーを感じる。ジャンルに関係なく、とにかく「合奏」という行為からしか生まれ得ない歓喜…というのは、こういうものなのだと毎回、彼らの演奏を聴くたびに思い知らされる。それは、演奏の表面には現れてこなくても、個々の根底に流れるリズムが常につながってひとかたまりになっているのが伝わってくるとか、そんなことなのかもしれない。

 音楽っていいな。という、とても単純で純粋な喜び。
 エル・システマという場所には音楽が持つ力の源泉があるような気がする。

 SBYOは全員がエル・システマ出身者であり、現在は教師として従事している者も多い。
 自分たちはどこから来て、どこに行くのか。つまり、《エル・システマ》で生まれたオーケストラが奏でるべきは何なのか。今回、そんな大命題をいよいよ示唆する作品を突きつけてきた…というのは、センチな深読みに過ぎない?

 ちなみに「春の祭典」は、指揮者やオーケストラによってずいぶんいろんな印象があるのが面白い。こないだ聴いたマルケヴィチ指揮ワルシャワ国立響の演奏は世紀の珍盤と言われているだけあって、とにかく爆裂轟音が凄すぎてビックリした。リズムとかビートとかを超越して、もう、なんつーの、ノイバウテン思い出した(笑)。それくらい、脳髄直撃系。かと思えば、サー・サイモン・ラトル指揮ウィーン響はやっぱりずっと品があって、荘厳にゆったりとうねる大河のような柔らかさがひときわ前面に出ている印象があったし。で、このドゥダメルSBYO版はどうかというと、爆裂轟音という点ではマルケヴィチ以上にダイナミックで大胆で、だけど揺るぎない、地に足のついたリズムが太いグルーヴを生み出しているし、リズムに足をとられずによく歌う。だから、どれだけ過激な展開にさしかかっても、サー・ラトルのようなエレガントなうねりがある。あくまでパッと聴きの印象ではあるのだが、ストラヴィンスキー自身の指揮による「春の祭典」の、美しさと不安感が表裏一体になったようなドラマティックな感じにかなり近いものを感じる瞬間がけっこうあった気がする。

 まぁ、しかし、きょう輸入盤が届いたばかりで、2度くらいしか聴いてないからあんまり自信を持って言えないけど。ファースト・インプレッションとしては、そんな感じ。またじっくり聴いて、あらためて書きたいと思います。


☆本文中でも触れた『FIESTA』にはレブエルタス「センセマヤー」や、鈴木明子さんでおなじみ「マンボ!」などいろいろ収録。個人的には、南米の現代作曲家が最近ちょっと気になっている。欧米のオーケストラが演奏したらどんな感じになるかはわからないけど、本作でのクラーベのクールさとかビックリしますよ。ほんとに。サルサのオーケストラが好きと言うからには、その地下水脈を辿っていくとこーゆー場所につながるのだということを知っておきたいものだなぁと思ったりして。

Fiesta

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