Less Than JOURNAL

女には向かない職業

シリアナ

昨日はWBC日米戦を見てちょっと寝て、起きて、映画館へ行った。つまり、見事に「もぉ、まったくなぁ、アメリカさんのやることはよぉぉー(怒)」みたいな1日となったわけである。いやぁ、なんだか悪い意味で絶妙のスケジューリングをしてしまったなぁ。
むなしい。悔しいとか納得いかないとかでなく、ただひたすらむなしい。それは野球と映画の相乗効果なのかもしれない。あー、野球や音楽や映画や食べ物やファッションや……今なお憧れ続ける彼の地はやっぱし結局、永遠にこんなにも遠いのだな。と、『クラッシュ』を見た時とは別の意味でしみじみ思いをめぐらせた1日でございましたよ。

ちなみに、歌舞伎町の映画館の窓口で「尻穴、1まい」って言うのはちょっと恥ずかしかったです。

さて。尻穴……じゃなくて『シリアナ』、原作は元CIAエージェント、ロバート・ベアが書いた告発ドキュメンタリー『CIAは何をしていた?』(新潮社)。ここに書かれた背筋が寒くなる事実関係をもとにしつつ、あえてドキュメンタリー的な側面を断ち切った「物語」の体裁がとられている。脚本は『トラフィック』のスティーブン・ギャガンなので、あーゆー感じのアンサンブル劇。CIA局員のジョージ・クルーニーアメリカ人エネルギー・アナリストのマット・デイモン、全米最大の石油会社の合併を担当する弁護士のジェフリー・ライト、テロ組織に関わってゆくパキスタンからの出稼ぎ労働者マザール・ムニール……などなど、まったく無関係な人々のエピソードが次第にひとつにつながってゆく。ストーリー構成は『クラッシュ』を例にあげるまでもなく、いわゆる“今流行の”スタイルだし、いい意味でハリウッド的に“よくできているホン”なので、パッと見はクランシーやラドラム原作のエンターテインメント・スパイ・アクション! みたいなムードにうまいこと仕立てあげられている。実際、マット・デイモンはクランシーの『ボーン・アイデンティティー』『ボーン・スプレマシー』に主演し、ロバート・ワグナーに続く(?)新世代の知的謀略アクション映画のヒーロー役者としての評価も得ているわけで。そのデイモンを主役に据えた時点でも、これは“パッと見はエンタテインメント作戦”の謀略といってもよい(笑)。

しかし、“謀略アクション・エンターテインメント”としては完成度が低い。なぜかというと、それは原作が現実だから。つまり、完成度が低いことに意味がある。逆にいえば、完成度が低いという「完成度の高さ」に驚嘆させられる。

たとえばハリソン・フォードあたりが主演するフツウのスパイ映画ならば、絶体絶命に陥った地球の危機を間一髪のところで救ってくれてイエーイ!グッジョブ!てなわけで。どんな悲惨な事件が起きたとしても、それはすべて痛快一発逆転ラスト・シーンに向けての伏線でしかない。ようするに映画でも小説でも、最後の大岡裁き的ドンデン返しを確信しつつのハラハラドキドキを楽しむために作られたフィクションなのだから。しかし『シリアナ』の場合、とんでもないことがいろいろ起こるけど(←説明するとネタバレになるので)結局は何も変わらず地球は回り続ける……というお話である。冒頭、クルーニー演じるエージェント(=原作者)が、非情な任務をひとつ片づける場面が出てくる。それは007シリーズの冒頭に必ず出てくる、本題とは無関係なでっかい仕事を朝飯前に片づけるカッコいいイントロダクションを思わせる。が、このエージェントは007でなく、組織の弱体化に失望してCIAを辞してまで告発本を書いた実在する人物なのである。その事実にふと気づいた瞬間からもう、非情な任務をクールに遂行してステキ〜♪ という、007鑑賞気分でこの映画を見ることができなくなる。007みたいに始まるんだけど、最初から最後まで、決して007のようには楽しめない映画。

という、ある意味もどかしい映画でもあるのだが、フツウの謀略アクション映画ではありえない“もどかしさ”こそが、つまり、この映画のゾッとするよう骨子なのだ。現実ならではのもどかしさ。正義感にかられたひとりの合衆国民である主人公によって地球の平和が守られたのであーる……というところで物語が終わるハッピーな映画ならば、映画が終わればすぐさま、映画館の外にある平和な現実社会へと戻ってゆくことができる。けれど。この映画は映画館の中では完結しない。本当の結論は、映画が終わったら誰もが戻ってゆかねばならない“映画館の外にある世界”の中にこそあるのだから。乱暴な言い方をするならば、むしろ、映画館を出た後で始まる映画なのかもしれない。
スパイ・謀略小説や映画が大好きなので、そういった作品の多くは実際に現実社会で起こりうる出来事への警鐘をこめているということはよーく知っている。なので、フィクションが原作だからウソ話で、ノンフィクションが原作だからリアリティがある……とヒトコトで断言できないこともわかっている。が、やっぱり、この映画のもたらす後味の悪さというのは、どんな大作家の想像も超越したノンフィクションが原作であることの重みなのだろう。

話はそれるが、ものすごく昔、マリオ・プーゾの『3番目のK』という小説で、テロリストがニューヨークのタイムズスクエアを爆破するというエピソードがあった。真のテロリストは、「フツウはそこまでできないだろう」ということまでやらねば使命を果たすことができない……みたいな信念で、小説の中のテロリストはそれを実行するわけだが。この小説を読んだ時、わたしは大笑いした。いくらなんでもタイムズスクエア爆破しちゃうのは、物語としてテキトーすぎるだろう。それをやっちゃあ謀略小説もおしまいよ。と。内容的にも、トンデモ小説だった(でも、そこが好きだったんですが)。が、それは9・11よりはるか昔の話だ。確かに、9・11以降の謀略小説は終わっている。プーゾの小説は「現実を予見していた」なぁんて言うほどシリアスなものではなく、ホントに唐突に爆破してしまうんで、とても面白い、いろんな意味でプーゾ先生ならでは!の隠れた傑作だったんですけども。今ではもう、トンデモ系というにはつらすぎて、笑えもしない。

で、話は『シリアナ』に戻るが。この作品に出てくる事実ひとつひとつの重みはもちろんのこと、あの原作をハリウッド製の“物語”にするために“預かった”製作者たちの覚悟とか勇気の重みを、観る者は無意識に受け取っているのかもしれない。それが、この映画のテーマなのかもしれない。物語に置き換えられることができないどころか、原作の中でさえも活字にできずに行間にこめるしかなかった「言えないこと」が、きっちりと映画化された作品の背後からオーラのように漂っているのを感じる。

この映画に出てくるような問題だけでなく、世界中にはまだまだたくさんの「言えないこと」があるんだろうなぁ。言わない、のではない。感じることはできても、言うことができないこと。言ってしまったら、他のあらゆるもののバランスが崩れてグジャグジャになってしまいそうなこと。何があるのかはよくわかんないけど、それが存在していることだけはわたしでもわかる。しかし、そういう脆いバランスで成立しているに過ぎない様々な「言えないこと」に包まれて地球は回っているってことだ。なんちって。

CIAは何をしていた? (新潮文庫)

CIAは何をしていた? (新潮文庫)