Less Than JOURNAL

女には向かない職業

オーネット・コールマン

《3/27Bunkamuraオーチャードホール、3/28東京芸術劇場大ホール》
「…………Enjoy Yourself」
公演初日、暗闇の中からド派手なスーツ姿でゆっくりと現れたオーネット・コールマン
サックス(遠目で見ただけですが、あれはやっぱし、くだんの白いプラスチックの……!?)を抱え、マイクに向かって聞き取れないくらいの小声でポソッと言うなり、いきなりおっぱじめた。
♪ブゥォロロロブガシャカブガガガゴォォォーーーァ♪
うぎゃぁー!もう、なんつーか、いきなりグーで殴られたような。ブッ倒れるかと思いました。マジで気が遠くなりそうでした。恥ずかしながら、生まれて初めての生オーネット体験。もう75さい(くらい)かぁ、さすがにこれが最後の来日になるのかなぁ……なんていう事前の心配は、余計なお節介もいいところであった。ご無礼をお許しください。
“Enjoy Yourself”は「オレの心配なんかしないで、この音楽を聴く自分自身をめいっぱい楽しめ」とも聞こえたし、あるいは「勝手に楽しめ」とも聞こえた。
《オレは吹く、あとは勝手に楽しめ!》
つまり、そういうことなのか。*1 
ツイン・ウッドベース+ドラムスの3人を従えて、オーネット・コールマンは縦横無尽に唸り続けた。サックス、そしてやっぱし、今でも時々トランペット、時々バイオリン。曲の途中でトランペットを手にしたと思ったら「やっぱりやーめた」と言わんばかりに元の場所に戻しちゃったり、立ち止まっていたかと思えば突然モーレツな勢いで走り出すような奇襲ソロを爆裂させたり。その予測不能っぷりにシビれさせられっぱなしだった。
わたしの心に浮かんだのは、ちょっとフシギな、コトバでは説明しがたい光景なんだけど……中央に座っている(ときどき立っている!)オーネット・コールマンは、時々道ばたの花を摘んだり、立ち止まって空を見上げたり、ふと軽く走ってみたりしながら、悠然と道の真ん中をずーっとマイペースで進み続けていて、で、バンドの面々は彼の足どりに合わせて一緒に同じように進んでいるんだけど、彼らはオーネットと違って陸上選手かF1レーサーみたいに凄まじい集中力で全力疾走を続けている……みたいな。そんな感じ。ホントに全然まったく説明になっていないんですが(笑)。つまり、それは、いかにオーネット・コールマンが《奇跡の自由》に満ちあふれているかってことだ。ひょっとしたらフリー・ジャズという概念も超越しているのかと思う、それくらい彼は自由だった。しかも、完璧な理論を構築し続け、そのうえ50年以上も自由であり続けることができるというのは、それはもう、まちがいない、神様に選ばれた人であることの証だ。つか、オーネット・コールマンが神様なんだけどね。庶民の考える「昼まで寝てる」とか「むつかしいことは抜きにして」とか「おかわり自由」とか、そういう自由とは別問題の自由ですからね。だから、彼がスキップでルンルン歩きをしていても、それについてゆくバンドはF1マシンが必要だったりするっつーことだな。

最高に自分勝手であることは、最高に自由であること。
そんなことを、今までにもいくつかのコンサートの中で思ったことがある。たとえばディランとかブライアンとか。で、今回ひさしぶりに、同じような感覚を意識した。やっぱし、自由であり続けることは選ばれし者だけに許された特権なのだ。ね? まぁ、本人たちに「自由ですね」とか言ったら「オレもいろいろ大変なんだよッ」と叱られるのかもしんないけど(笑)。その大変さもまた、自由であり続ける運命の付属物なのかも……だし。

で、オーネット・コールマン。彼が自由だってことは、わたしたちも自由だってことだ。そりゃそうだ、それが彼の作り上げたジャズ……唯一無二のフリー・ジャズだ。このコンサートの中でわたしは、オーネット・コールマンが過去さまざまな作品の中に残してきたホンモノのフリー・ジャズを、「再現」ではなく「今」の音楽として体験しているのだというアタリマエの事実を一瞬、一瞬、えんえんと、このうえない幸福感と共に痛感していた。
そもそも、最初に彼が言った“Enjoy Yourself”というコトバ。それこそまさに、フリー・ジャズの奥義ではないか!? なんてコトバにすると青臭くて恥ずかしいけど……今さらながら肌身に思い知らされた次第だ。
ヒマをもてあました大学生のすることの定番として(笑)、最初にフリー・ジャズにのめりこんでいたのは学生時代のことだった。でも、正直、当時は前衛とフリージャズの区別もついてなかったんだと思う。ヒマなうえにバカな大学生でしたし(溜息)。カッコいい気がする、フツウと違う気がする……くらいの憧れ気分だったのかも。ただ、確実に自分を“どこか”別の場所に連れていってくれるものだということは漠然と感じていた。その“どこか”が何処なのかは全然わかんなかったけど。オーネット・コールマンがこんなにも自由で、高潔で、楽しくて、笑い出したくなるほど幸福な音楽なのだということをリアルに感じられるようになったのは、恥ずかしながらずっとずっと後になってからのことだった。で、年齢のせいなのか経験のせいなのかわかんないけど、だんだん好きになってゆくんですよ。今もまだ、ますます好きになっている上り坂の途中。コンサートだけでなくCDも昔よりもずっとワクワクしながら聞いていたりする今の自分は、確かにかなり“Enjoy Myself”だな。わからないとはスナオに言えず、首をかしげて『ゴールデン・サークル』を聞いていたヒマバカ大学生の自分も、今となっては愛しいと言えなくもないが(笑)。

音楽の神様は、その人が積み重ねてきた経験に見合ったゴホウビをくれるんだなぁ。
余談になりますが、そんなことも思ったりして。
わたしのような薄っぺらいファンでも、このコンサートで、自分の薄っぺらさ=キャパシティで味わえる最大・最高の感動をいただいた。で、おそらく、オーネットをもっと深く深く愛し続けてきた人たちは、その深さに見合っただけの感動を貰ったのだろう。すごく羨ましい。でも、その感動とは、ずっとオーネットを聞き続けてきた人へのゴホウビであって、わたしが同じ感動をねだるのは、鉄の斧を落とした木こりが「金の斧を落とした」とウソをつくよーなもの。あと、逆に、今回初めてオーネット・コールマンを聞いた……という人がいたとしたら、それはそれでマニアにはわからない新鮮な感動をもらったんじゃないかなーと思うし。それもちょっとうらやましい。帰りのエスカレーターで興奮を語り合いつつ「で、あれ、アルト・サックス……だよ、ね?」とか話していた学生さんたちの感想を聞いてみたかったです。彼らは、ここで人生が変わったかも。

2日間とも行って、ホントによかったです。泣いて笑って、笑って泣いて。ひさびさに、めちゃめちゃいい汗かきました。演奏としては、初日で点火して、2日めで燃え上がった……という感じで、2日目のほうがより充実していたのかもしれないけど。何が起こるかわからない、初日のスリリングでドラマティックな展開も素晴らしかったし。どっちも別ベクトルで最高だった。山下洋輔さんは自称“前座”としての(笑)ソロ・ピアノで登場した後、本編終盤からアンコールにかけて再度登場してカルテットにジョイント。世界最高のジャズ・ジャイアントへのリスペクトと、彼と共演する喜びが、なんだか大御所の洋輔さんを若々しい青年のように見せていた(笑)。しかし、リスペクトと書いて本気と読んでマジと発音する。その気迫、すごかった。とりわけ2日目は前日のセッションでタマシイが燃え上がったのか、ソロ・ピアノの1曲めから猛烈に飛ばしまくっておられた。超カッコよかった。「音楽に国境はない」とかゆっても、実際、たいていの人たちには国境はある。残念なことに。音楽という「言語」も、環境や才能によって異なるから話が通じなかったりするわけで。が、本当に本当に本当に(しつこい)音と音でお話ができる人たちには、国境はない。で、音と音でお話ができるってことは、それはつまり、命がけで音楽をやってるってことだ。命がけで音楽をやっている人たちは、命がけで音楽をやらない人は死ぬまで見られない世界を知っている。それが国境のない世界、なのかもしんない。まぁ、ファンの立場なんて、それをこっそり覗き見してる常連のデバガメみたいなものですから、そんなこと偉そうに語る権利はないんスけどね(笑)。でも、覗き見しているだけで、その国境のない世界は人生のいろんなことを教えてくれる。ジャズはすごい。パンクよりも破壊的だったり、ゴスペルよりも寛容だったり、歌詞もないのに聞き手を叱ったりする。たぶんわたしはジャズだけでは生きていけないけど、ジャズがない人生は絶対に困る。

あらやだ。頭の隅に残ってる記憶をポツポツ書き出していったらこんなに長くなってしまいました。ジャズについて書くと、どうも、自分がいかに何もわかってないかを思い知らされて、自分で自分の首をしめてるよーな気分になるので恥ずかしい。なおかつ、わたしにとってのジャズは、なんつーか、いろんな意味で「コトバで語らないところが、宝物の宝物たるゆえん」みたいなところもあって。だからホントは、オーチャードホールの帰りに久しぶりに宇田川町交番近くの「新楽飯店」に行って、「シビれたねー」「ロンリー・ウーマンやったねー」「ビックリしたねー」なんて、つまんない会話しながらコゲコゲでアツアツの春巻きを食べていたことがどんなにシアワセだったか……とかだけを書こうと思っていたのだが。ジャズ聞いて、帰りにみんなでボロい中華屋。サイコーっすよ。至福っすよ。

*1:自分用メモ:某誌のディラン記事で書いた《あとは各自》論のデジャブっつーか。ある意味敷衍、ある意味“神様論”としての再検証