Less Than JOURNAL

女には向かない職業

寺尾紗穂がびゅうびゅう

 以下、かなりわかりづらいメモ。

●9月24日・寺尾紗穂 ライブ@下北沢ラカーニャ

 2ケ月前、ちょうどわたくしの誕生日にライブ告知があって、この予約が出来たら最高の誕生日プレゼントtoじぶんだなと思いながらメールで申し込んだらラッキーなことに予約できた!
 そんなわけで。この2ケ月ずっとワクワク待ちこがれていたライブ。

 出産、育児のためにしばらくライブ活動をお休みしていた寺尾紗穂さんの復活ライブ。なんと限定30人。復活ライブは限定30人、という美学がまたいい! 贅沢すぎる。ものすごく家庭的なというか、あたたかい空気が充満。そんな中で演奏されたのは、前半では今までCDで発表された曲が中心、後半は今レコーディング中だという曲を含めた新曲ばかり。最新作『風はびゅうびゅう』だけで3年は生きていけると思っていましたが、うわー、まいりました。琴線触れすぎで、弦がゆるんでチューニングが必要。みたいな。早く次のアルバムが聞きたい! この、ピアノと歌で作られる独自の立体感が今回もまた見事に音盤化されるのでしょう。いやー、楽しみ。

 さて。その記憶が正しければ、わたしは今まで雑誌にレコ評ひとつ書いた以外には、寺尾紗穂さんの音楽についての感想を書いたことがない。それはなぜかというと、カンタンに言えば、好きすぎて何を書いていいかわからないからでーす。もう、書きたいことが多すぎて何から書いていいかわかんないとも言えるし、もしくはオレごときがムシの屁みたいなつまんないこと書いたところで寺尾さんの音楽の素晴らしさを説明することはできないし、それどころか、そんなムシの屁をまき散らすのは寺尾さんの音楽を世に広めるにあたってご迷惑なことかもしれないという、柱の陰のアキコねえちゃんみたいな心境ともいえる。いや。違うな。それもちょっと言い訳がましいな。結局、好きすぎて誰ともわかちあいたくなくなるくらい好きなのかもしれないです。寺尾紗穂という音楽は、それくらいものすごく深い場所まで入り込んでしまった。しかも、あっとゆー間に。*1

 『風はびゅうびゅう』を最初に聞いた瞬間、アタマのてっぺんからゾクゾクッと震えが走る感覚になって。なんだか懐かしい感覚だなぁと思ったら、それは、初めてローラ・ニーロの『ニューヨーク・テンダベリー』を聞いた時と同じ感覚だった。あるいはキャロル・キングの『サラブレッド』や『ライムス・アンド・リーズンズ』あたりを聞いた時も、そんな感じだったか。
 日本語のロック史というものが40年くらいあって。で、その間、いろんなエポックメイキングなことがあって、特に70年頃からの十年あまりはものすごいことが次々と起きていたわけだが。わたしは残念ながら、そのいずれもリアルタイムで目撃することはできなかった。だから、その、はっぴいえんどのファーストアルバムをリアルタイムで買った人の気持ちとか、最初に吉田美奈子が弾き語りする場に居合わせた人の気持ちとか、そういうものについては想像するしかなかったのだが。
 こんな気持ちだったのかな。
 と、ふと、寺尾紗穂を聞いている時には考えたりする。
 リアルタイムで経験したエポックメイキング系を思い出してみると、フリッパーズのファーストアルバムを聞いた時の驚きとか、フィッシュマンズのライブを初めて見た時の、いきなり心にグッと深く刺さってきた感じとかに通じる感じかもしれない。こちらがどんなに身構えていても、素直でない態度でいたとしても、音楽のほうから《人見知り》せずにダーッと近づいてくるような。ものすごい音楽って、そんな感じで出会うことが多い気がする。なぜだか。

 ほら、やっぱりうまく説明できない(と、逆ギレてみる)。
 とにかく、寺尾紗穂の新しい音楽に触れるたび、自分は今、音楽鑑賞人生の中で滅多にできない経験をしているのだという実感がひしひし。

 彼女の音楽が誰かに似てるとか、なんとか系だとかいう意味ではなくて。
 時おり、寺尾さんの音楽は《現代のティン・パン系》という風にカテゴライズされるようだが。それは、まぁ、オレに言わせりゃトンチンカンな話だな。たぶん、お父さんがシュガーベイブで、声が大貫さんや美奈子さんに似てる気がするからってことだろうけど。実は、誰にも似てない。そこがすごいところ。

何かってーと「ユーミン越え」だの「ドリカム越え」だの、先達を踏み越える無礼を奨励するかのように、評価が常にポスト誰々の基準で語られる日本の「ワナビー文化」と彼女の音楽は永遠に交わることはないでしょう。それが幸いなのかどうなのかは別として。

 『ニューヨーク・テンダベリー』でも『扉の冬』でもいいけど、そういう先達を想起させるのはなぜかというと、それは彼女の音楽が本来の、本当に本当に本当に《本来》の女性シンガー・ソングライターの姿をしているから。

 何もない場所に、自分の歌だけを携えて立つ。

 そういう勇ましさ……しかも、ある意味、女性ならではの強さや美しさやたくましさをたたえた勇ましさを、寺尾さんの歌を聞いて、久々に感じたのだった。

 「女性シンガー・ソングライター」という歴史の黎明期。ほんのちょっと昔のことだけど、それはもう、原始時代みたいに何もない時代だったわけで。そこでピアノを弾いて、自分の作った曲を歌って聞かせるということを始めた人たちのカッコよさたるや。

 まず、自分が歌うべき言葉を持っている(それは必ずしも自分から出た言葉というわけではなく、他の人の書いたものであっても自分が歌うべき言葉、という意味)。そして、言葉にならないエモーションを旋律に仕立てる力を持っている。紡ぎ出す言葉と同じくらい語彙の豊かなピアノを弾く。で、それらの才能をポップ・ミュージックという肉体に宿す役割を果たす歌声。

 そういう、いわば原始時代の記憶をもったDNAをフツウにガーッと全開で覚醒させた天才があらわれたら、そりゃ、ビックリしますわな。よく言われるように、日本語のロック史的にはもちろんサラブレッドで、もちろん音楽面以外でもご家族や育った環境の影響もあるとは思うのですが、やっぱり、わたしの中での寺尾紗穂は、ものすごい突然変異の天才という位置づけです。

 オリジネイターと呼ばれる人たちは、Originalという言葉の意味をわかっていた。
 今、その言葉の意味はどんどん薄くなっている。でも、自分自身であることを楽しんで、そこから生まれる音を届けることを楽しんでいる人の音楽はいつの時代であろうともOriginalだ。

 ようするに「なんで歌うのか」をわかって歌っているひとはすごいってこった。で、そうでないひととの差はあまりにも大きすぎるってこった。なんで歌うのかわからないひとは、最初からシンガーソングライターとかやめたほうがいい。あとで苦労するから。そのうち何を歌っていいのかわからなくなると「最小公倍数のラブソング」みたいなことを試みたり、「女の子なら誰もが共感するキモチ*2」のネタ探しに奔走してみたり、自分の外側にある価値観に頼ったりするわけで。なんてね。自分をカヤの外に置いた自作自演の曲ほど、聞いていてせつないものはない(悪い意味でね)。ま、これは90年代以降ガールポップ文化の興隆と停滞についての話にもかかわってくる話で、そのことも最近いろいろ考えてて、いろいろ興味深い図式が見えてきたところなんですが。それはまた別の機会に。

 しかしこれ、まぁ、ものすごいボロボロなメモ書きだな。
 それでも、テラオメモは今後も続きます。
 誰に止められようとも続きます。今、わたしの最大の趣味なので。
 そのうち、ちゃんとまとめます。

 つづく。

*1:ちなみに、もちろんお会いしたこともない(←イーチ・アザーという意味では)

*2:これはツチノコ。「誰もが共感」は業界慣用句だが、その表現は願望に過ぎない。誰もが共感するというのは「ジョイ君の洗剤はよく落ちる」とか、そういうジャンルで使うべきであって……以下略