Less Than JOURNAL

女には向かない職業

音楽のことだけ考えていたいけど

 グルジア出身のリサ・ヴァティアシュヴィリが、かなり繊細な問題についても答えている。 Video: Lisa Batiashvili on a 'Requiem for Ukraine' http://t.co/y7kVbP2EsV via @WQXR

 

 欧米ポップ・カルチャーからなるべく遠いほうが環境としてよかったりすることもあるわけで、よってクラシックはどうしても政治的に難しい国の出身者も多いけれど。いろんな国でインタビューに答えなくちゃいけないわけで、そこは本当に気を遣って大変だろうなと思う。ただ故郷愛を語っただけで政治的発言とされたりする危険もある。それでも彼らは、音楽を奏でるために世界中を飛び回る。音楽と政治は関係ないつっても、決して無防備ではいられない。

 

 今年2月、リサちゃんがNYフィルと来日した時はちょうどソチオリンピックの真っ最中だった。元はグルジア領土だった地での五輪開催に、彼女は少なからず複雑な心境であったはず。時節柄、コンサートでもチャイコフスキーといえば……と、時事ネタをからめて紹介されることが多かった。が、アンコールでアラン・ギルバートは「東京は久しぶりに大雪が降ったそうですね。なので、寒い国のワルツをやります」と言ってからチャイコフスキーをやった。さすがと思った。これを本当にさらりとやるスマートさ、ニューヨークの音楽家の家庭に育った子らしいなぁと。「あえて政治的問題に抵触する発言は避けました(ドヤ顔)」みたいなことではなく、子供の頃からごくごく当たり前に身につけているテーブルマナーとして心得ている感じが好感度高かった。

まぁ、好感度はもとから高いんですけど(爆

 

 ところで。まぁ、本当に、なんというか、そんな中、あまりにも政治的に無防備で、ちょっと心配な子がひとりいるんだけど……今はあまり触れずに、しばし見守りたいとは思うのだが。今、ひとこと書き留めておくならば、100年にひとりと言われる音楽家の人気に便乗して「この課金制ゲームで遊ぶと売上げがチャリティになりますよ」てな、あまりにも不透明なことを、彼の音楽家としての公式英語ツイッターに日本語ツイートでさせる団体には、正直、素直に疑問を呈さざるを得ない。

 

 グス太が好きだというと「日本にもできたんですよね、なんとかシステム」と言われることがたまにあるので宣言しておくが、なんとかシステム(違)のジャパンにはまったく興味がない。グス太を生んだ教育システムについて米国の音楽教師が書いたルポタージュ「Changing Lives」が、昨年、世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ……という妙ちきりんなタイトルで邦訳出版されたが、私には抄訳としか思えない端折りぶりで(とりわけ音楽的な記述における訳は、固有名詞を主観的な判断での省略していると思われる箇所などもあり、とても雑なのが気になった)、巻末には日本版の独自構成としてなんとかジャパンに関して大きくページが割かれていた。自分なりに情報をかき集めて考え、現時点では私はこの団体のありかたに賛同できないと判断した次第である。もちろん、その活動を否定するわけではない。でも、私は賛同できないし支持しない。言うまでもなく、音楽には罪はない。ましてや、楽器を手にしている子供たちの情熱は別の話である。しつこいようですが、言うまでもなく。

 しかし、日本でドゥダメルを紹介するとなると今なお「彼を育てた自国の音楽システム」云々という説明がセットのようにがっつりついてくる。そのわりに米国での活動歴についてはバイオまるうつしの投げやりな紹介で、たとえばLAでの5年間については「29才の若さで音楽監督に就任」とだけ。今の活動よりも、将来ベルリンフィルの音楽監督と目されているということだけやたら書きたてられるのは欧州史上主義だから仕方ないのだろうか。私は、彼をあくまで《音楽》そのものだけで判断したい。自立した、世界的な指揮者として語りたい。もし音楽以外のことを語るならば、自分でちゃんと調べて確かめたことだけを語りたい。わからないことを適当に端折るという無責任な記事が多いのは、なにか業界の大人事情があるのでしょうかね。

 ただでさえ、彼は本当に難しいところを何とか乗り越えてきている。そもそも反米路線の大統領の政権の庇護下で生まれた教育システムで育ち、今もなお本国では現大統領と笑顔で会見する様子が全国ニュースで流れるなどプロパガンダに利用されていることは明白。そんな人が、ただひたすら音楽という細いロープを1本を頼りに、それを綱渡りするように合衆国にやってきて、ディズニー傘下のオーケストラで活動していることじたいが本当にものすごい奇跡なのである。本当に、ものすごい薄氷の上を歩いてきたと思う。もちろん、才能が花開いたきっかけは故郷の教育システムのおかげだけど。それが正しかろうとそうでなかろうと、彼自身の才能は別もの。

 これまでの出来事をあれこれ振り返ると、単に政治的、外交的な事情を超越して、世界の音楽界全体がひとつの才能を全力で守ろうと団結してきたのではないかという気がしたりもする。人の力、あるいは音楽の神様の采配なのかもしれない、とにかく何か大きな力に守られていると感じるし、守られるべき才能だと思う。ある意味、政治と音楽のバランスをいかに保っていくかとという永遠の命題を今、彼自身と、彼をとりまく環境は、現在進行形で、もっとも大きなスケールで見せてくれているのかもしれない。