Less Than JOURNAL

女には向かない職業

ローランド・カークと佐藤伸治

最近、ローランド・カークの『ヴォランティアード・スレイヴリー』(69年・アトランティック)ばかり聴いている。とは言っても、もう20年以上は大好きなアルバムではある。が、今、かつてないほど好き。いわゆる十八番満載、ノリにノッた時期の勢いが“ポップ”というカタチに昇華しているような……。1曲めのタイトル曲で「ヘイ・ジュード」を引用したり、「マイ・シェリー・アモール」とか「小さな願い」を平気でやっちゃうシャリコマ感や、そういう曲とコルトレーン・メドレー、あるいは自身のオリジナルがフツウに同居してるカッコよさというのも、今は理屈でなくカラダでわかってきた感じ。思い起こせば、このアルバムがいかにファンキーかというのに気づくまで何年もかかったし。ローランド・カークは、自分の経験値の上昇に合わせてどんどん好きになってゆく音楽家のひとりだ。

で、このアルバムの中でも、カークが「んー」「はー」「かー」「ぐー」と得意の独特な唸り声を発しているわけだが。今日、それを聞きながら「カークは唸ってるんじゃなくて、啼いてる」と感じた。で、彼の他にもうひとり、音は全然違うのに、同じようなキモチにさせる「啼き声」を知っている……と、ちょっと考えて、すぐに思い出した。

フィッシュマンズ佐藤伸治だ。

晩年の佐藤伸治くんが歌の中でしばしば発していた、音符にならないフシギなフェイク。その声を、最初に聴いた時から「啼いてる」と感じてた。「フェイク」とかテクニック的なものを超越して、そして喜怒哀楽すら超越して、もう、理屈ぬきで魂の求めるまま「啼いてる」って感じだった。彼が、今まで誰も歌ったことのない歌を歌い始めたころのことだ。その歌声を聴いて、コトバではうまく説明できないけれども、既存のジャンルを確実にハッキリと超越した場所に彼は到達したのではないかと思った。到達した……というか、何か、自らの歌によって、フツウの人が見ることのできない世界を見た……いや、見てしまったのではないかという気がした。たとえばマーヴィン・ゲイのように歌いたいとか、そういうレベルではなくて。もっと遠くの、そもそも原始の祖先たちが生きてゆく中で“歌”というものを“道具”として編み出した瞬間の感覚みたいなもの。彼はそういう感覚を、まだ完全ではないかもしれないけれど掴みつつあるのかもしれない……と思った。で、当時、そう思ったことを佐藤くんに話してみた。ルーツを遡りすぎて、原始時代の歌が始まった瞬間のトキメキ、みたいなとこまで行ってしまったのでは? と。そんなこと言ったら、きっとまた「妄想!」と笑われるかなと思いつつ……。そしたら彼は、笑いもせずにマジメに、しかもちょっとだけ困ったような表情になって「そーなんだよねー」と答えた。もう10年くらい前のことなのに、この時に話したことや、彼の見せた表情をフシギなくらい鮮明に覚えている。そして、こんなことを今さら書くと後からこじつけたように思われそうで、あまり人には話さなかったことなのだけれども、彼が音楽の神様に魅入られたことをゾッとするくらいリアルに実感しつつ、そのことは音楽ファンとして最高に嬉しいはずなのに、なぜか一抹の不安というか、せつなさというか、奇妙な胸騒ぎを覚えたのだった。でも、その時は、フィッシュマンズがあまりにもスゴすぎるからコワいのだと思っていた。

去年、フィッシュマンズベスト・アルバムがリリースされた時、ひさしぶりに現リーダーの欣ちゃんに会って、ひさしぶりにフィッシュマンズの話をした。その時に、佐藤くんが亡くなる直前、あまりにも物凄いことになってしまったフィッシュマンズの今後について、これからはしばらくちょっとコンパクトな感じのモノをポンポンと出してみようか……という相談をしていたということを聞いた。で、今日、その話を聞いたことも思い出した。ローランド・カークが「小さな願い」や「マイ・シェリー・アモール」といった、いわゆる当時の“流行歌”を十八番としていたことも、ひょっとしたら晩年の佐藤伸治が感じていたことに近かったのかもしれない。ふと、そんなことを思ったのだった。マーヴィン・ゲイでも、ローランド・カークでも、佐藤伸治でも誰でも、とにかく、選ばれたひと握りの偉大な音楽家たちだけが見ることを許された場所を見てしまった人間は、その場所に激しく引き寄せられながらも、自らを現実につなぎ止めておく鎖として「ポップ」という感覚を尋常ならざるエネルギーをもって研ぎ澄ましてゆくのではないだろうか。それも計算ではなく、本能として。
『ヴォランティアード・スレイヴリー』における、ほとばしるエネルギーの凄まじさと、選曲を含めて全体に漂うポップさ……すなわち、そのエネルギーを出来る限りコンパクトにまとめようという、パッと見は正反対の情熱。あのアルバムの何が凄いって、その正反対の情熱がアクロバティックなまでに奇跡的な表裏一体をなすことで生まれる奇妙なバランスが凄いんである。で、その凄さは、わたしの中では(あくまで個人的な感覚だけど)フィッシュマンズの作品と、ある局面ではキレイにピタッと重なり合う。ウキウキと楽チンな、演出とかサービスとしての「ポップ」ではない。いわば、他者を意識する余裕すらないほど、激流に流されまいと必死で足を踏ん張っているような真摯な“武器”としての「ポップ」。ひょっとしたらそれは音楽のジャンルや時代に関係なく、たぶん歌というものが生まれた瞬間から存在していた「ポップ」の原点ってことなのかも。

今、『ヴォランティアード・スレイヴリー』を聴いてると楽しくて楽しくてしょうがない。ウキウキして、笑ったり、高揚したりしているうちに、あっとゆー間に時間が過ぎてゆく。でも、昔、初めて聴いた時にはそんな気持ちになれなかった。そのポップさ、ファンキーさの裏側にあるヘヴィさのほうが心にひっかかっていた。もともとは、そのヘヴィさが気になって好きになった音楽だった。フシギだなー。昔はブサイクなところが好きだった人を、今はイケメンだと思ってて、だけど好きなことは変わりなくて……みたいなフシギさ。で、わたしのフィッシュマンズ体験も、ちょっと似たような道のりを辿っているところがある。今、フィッシュマンズを聴いていると、ひたすらシアワセ。ものすごく楽しい。聴けば聴くほど、どんどん好きになってゆく。でも、うんと昔は、ちょっと深呼吸して、自分の中で何かが緊張しているのを実感しながら聴く音楽だった。

自分と一緒に、自分の中で育ってゆく。号泣してる時は一緒に号泣して、爆笑する時は一緒に爆笑してくれる音楽。そういう音楽は、一生モノだ。だから決して手放さず、死ぬまで大事にしたい。

ヴォランティアード・スレイヴリー(完全生産限定盤)

ヴォランティアード・スレイヴリー(完全生産限定盤)

追記。そういえば、去年、欣ちゃんに「佐藤くん、よく啼いてたよね」ってゆったら、欣ちゃんも「そうそう、啼いてた啼いてた!」ってニコニコしてゆってた(^^)。